若き日の弘法大師修行の地とされる四国四県を巡る祈りの旅路。険しい山路に分け入り、あるいは潮風にさらされながら海辺に歩を進める道中にはつねに大師がおわし、慰めと励ましのうちに平安と悟りに導かれるとされています。

弘法大師の遺徳をしのぶ遍路道

四国での修行で得られた信仰の確信

今日、日本全国に霊場巡拝コースは300近くあります。しかし多くの人々は身近な霊場より四国を目指します。そこは全行程1400km、徒歩では40~60日を要する苦行の連続で、天候に災いされればさらに困難を強いられます。 四国霊場はなぜそこまで人々を駆り立てるのか、人々はなぜ自ら求めて困難な旅に出るのでしょうか。

四国八十八カ所の成立は、信仰上では弘仁(こうにん)6年(815)に弘法大師空海の巡拝に始まるとされています。ほかに伊予の長者・衞門三郎(えもんざぶろう)が、大師への非礼を詫びるためにその姿を求めて各地を巡ったとか、また大師死後、高弟の真済(しんぜい)がその足跡を訪ね歩いたのが始まりとする説もありますが、いずれも伝承の域を出ません。

大師は宝亀(ほうき)5年(774)、現在の香川県に生まれ、15歳のとき京に上り中央官界への進出を目指して儒学を学びました。しかし、次第に官界への嫌悪を募らせ、19歳のとき四国に渡り阿波の大瀧嶽(たいりゅうがだけ)や土佐の室戸岬、伊予の石槌山での修行により出家の決意を確かにしました。

四国はいわば大師が信仰の確信を得た地で、儒教や道教より仏教がもっとも優れた教えであることを説き、31歳のときさらなる研鑽のため渡唐しました。

江戸期の隆盛を招いたのは一僧侶による指南書

その昔、京から遠く離れた地を辺地(へぢ)あるいは辺路(へんろ)といい、遍路という言葉はこのような土地での行道(ぎょうどう)を意味し、四国巡拝だけに使われます。その信仰は山水や巨岩怪石、巨樹など自然の造形を崇拝する古来の信仰と、人々に広く周知され、もてはやされるようになった大師信仰が結びついて形成されました。 巡拝の形態は大師死後、その足跡をたどった修行僧たちの間で踏襲されて原型ができあがったと考えられています。

当時の四国はもっぱら僧たちの修行の場で、平安末期の『今昔物語集』や『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』で四国辺地修行が語られ、仁安(にんあん)2年(1167)には西行、鎌倉期には一遍の巡拝などの記録も見られますが、いずれも八十八カ所が揃う以前のことで、今日の全行程を踏破したわけではありません。

室町時代には庶民の巡拝も盛んになり、この頃から江戸初期にかけて八十八カ所が定まったとされています。以後、四国遍路は隆盛を迎えますが、その発端になったのは貞享(じょうきょう)4年(1687)の僧真念による『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』で、この書で初めて札所に番号がつけられ、宿泊情報なども盛り込まれて版を重ねました。この番号は今日までほぼ踏襲され、寺号の代わりに用いられたりします。

貧者の巡拝にも手を差し伸べた地元の善意

かつての四国遍路には、関西一円を巡る西国巡礼のきらびやかさや秩父巡礼の長閑(のどか)さとはまったく正反対の、ある種暗いイメージをともなっていました。 ここでは現世利益(げんせいりやく)を求めての巡拝ではなく、不治の病に苦しむ人、糧を得る術を失い困窮する人、過去の罪のために悩む人など、さまざまな不幸を背負った人たちが大師の慈悲に頼って札所を巡りました。

実際、他の巡礼地に比べると、行き倒れてこの地に葬られた人の数も多かったようです。また、何らかの理由で故郷を追われたり、戻ることがかなわずに土地の人々の施しを受けながら、終生巡拝を続けることを余儀なくされた職業遍路と呼ばれた人たちが存在した時期もありました。
もちろん今日の遍路にはそのような影はさらさらなく、若い人たちや外国人の巡拝も増えています。アプローチの方法も、バイクや自転車など多様になりました。

それでも変わらないのは、巡拝者を迎える地元の人たちのお接待。飲食や宿の提供、時には現金のこともあり、昔はこのような善意が貧者の巡拝を可能にしました。他霊場でも行われていますが、四国ではとりわけ手厚く行き届いているようです。

本当のゴールは大師が永遠に住まう高野山奥ノ院

四国4県を巡る長旅は、ふつうは阿波一番から始まり順番通りに土佐、伊予、讃岐へとたどります。これを順打ち、逆に讃岐八十八番から始まって阿波を目指すのを逆打ちといいます。 逆打ちの由来は、衞門三郎が大師に会うためにやむなく逆コースにしてようやく出会えたという一件にあり、このとき三郎は罪を許されたうえに再来まで約束されたことから、逆打ちは利益倍増と信じられています。

阿波は求道心(ぐどうしん)を起こす「発心(ほっしん)」の道場と位置づけられ、土佐は若き大師が悟りを得た「修行」の地、伊予は煩悩を断ち切り迷いから目覚めるための「菩提」の道場、そして讃岐は煩悩、迷いを払い悟りの境地に達するための「涅槃(ねはん)」の道場とされています。八十八番で満願成就したあと、もう一度お礼のために一番に詣で、さらに高野山奥ノ院の大師御廟にお参りするのが習わしになっています。

大師は承和(じょうわ)2年(835)、この地で62年の生涯を閉じましたが、そのとき56億7千万年後に弥勒菩薩とともに再現することを誓願したことから、御廟の中で永遠の瞑想に入っていると信じられています。それゆえ遍路はつねに同行二人(どうぎょうににん)、苦行のうちにも守られ悟りに導かれるのです。

四国八十八箇所霊場の位置

発心の道場 徳島

第一番:竺和山 霊山寺
第二番:日照山 極楽寺
第三番:亀光山 金泉寺
第四番:黒巖山 大日寺
第五番:無尽山 地蔵寺
第六番:温泉山 安楽寺
第七番:光明山 十楽寺
第八番:普明山 熊谷寺
第九番:正覚山 法輪寺
第十番:得度山 切幡寺
第十一番:金剛山 藤井寺
第十二番:摩廬山 焼山寺
第十三番:大栗山 大日寺
第十四番:盛寿山 常楽寺
第十五番:薬王山 国分寺
第十六番:光耀山 観音寺
第十七番:瑠璃山 井戸寺
第十八番:母養山 恩山寺
第十九番:橋池山 立江寺
第二十番:霊鷲山 鶴林寺
第二十一番:舎心山 太龍寺
第二十二番:白水山 平等寺
第二十三番:医王山 薬王寺

■修行の道場 高知

第二十四番:室戸山 最御崎寺
第二十五番:宝珠山 津照寺
第二十六番:龍頭山 金剛頂寺
第二十七番:竹林山 神峯寺
第二十八番:法界山 大日寺
第二十九番:摩尼山 国分寺
第三十番:百々山 善楽寺
第三十一番:五台山 竹林寺
第三十二番:八葉山 禅師峰寺
第三十三番:高福山 雪蹊寺
第三十四番:本尾山 種間寺
第三十五番:医王山 清滝寺
第三十六番:独鈷山 青龍寺
第三十七番:藤井山 岩本寺
第三十八番:蹉跎山 金剛福寺
第三十九番:赤亀山 延光寺

■菩提の道場 愛媛

第四十番:平城山 観自在寺
第四十一番:稲荷山 龍光寺
第四十二番:一カ山 仏木寺
第四十三番:源光山 明石寺
第四十四番:菅生山 大宝寺
第四十五番:海岸山 岩屋寺
第四十六番:医王山 浄瑠璃寺
第四十七番:熊野山 八坂寺
第四十八番:清滝山 西林寺
第四十九番:西林山 浄土寺
第五十番:東山 繁多寺
第五十一番:熊野山 石手寺
第五十二番:瀧雲山 太山寺
第五十三番:須賀山 円明寺
第五十四番:近見山 延命寺
第五十五番:別宮山 南光坊
第五十六番:金輪山 泰山寺
第五十七番:府頭山 栄福寺
第五十八番:作礼山 仙遊寺
第五十九番:金光山 国分寺
第六十番:石鈇山 横峰寺
第六十一番:栴檀山 香園寺
第六十二番:天養山 宝寿寺
第六十三番:密教山 吉祥寺
第六十四番:石鈇山 前神寺
第六十五番:由霊山 三角寺

■涅槃の道場 香川

第六十六番:巨鼇山 雲辺寺
第六十七番:小松尾山 大興寺
第六十八番:七宝山 神恵院
第六十九番:七宝山 観音寺
第七十番:七宝山 本山寺
第七十一番:剣五山 弥谷寺
第七十二番:我拝師山 曼荼羅寺
第七十三番:我拝師山 出釈迦寺
第七十四番:医王山 甲山寺
第七十五番:五岳山 善通寺
第七十六番:鶏足山 金倉寺
第七十七番:桑多山 道隆寺
第七十八番:仏光山 郷照寺
第七十九番:金華山 天皇寺
第八十番:白牛山 國分寺
第八十一番:綾松山 白峯寺
第八十二番:青峰山 根香寺
第八十三番:神毫山 一宮寺
第八十四番:南面山 屋島寺
第八十五番:五剣山 八栗寺
第八十六番:補陀洛山 志度寺
第八十七番:補陀落山 長尾寺
第八十八番:医王山 大窪寺