新月に始まる旧暦では暦月の十五日の夜の月は満月。旧暦が使われていた時代には、今よりもずっと明るい、十五夜の月が輝いていたことでしょう。

十五夜の月

季節の移り変わりを示すのは、やや苦手な旧暦ですが、月の満ち欠けの具合を知るにはこれほど便利な暦はありません。日付さえわかれば、その夜の月の様子が思い浮かぶのですから。新月に始まる旧暦の暦月では、月半ばの15日の夜の月はいつも満月に近い月でした。ですから「十五夜の月」といえば満月をさす言葉と自然に考えられるようになりました。
月の満ち欠けというと今は月の形の変化ばかりに目が奪われがちですが、変わるのは形だけでなく、その明るさも大きく変化します。満月とはいっても、その明るい部分の面積で比べれば半月の2倍に過ぎませんが、明るさで比べると12倍にもなります。現代は深夜でも煌々と輝く街の灯りに埋もれて、満月の光でさえ霞みがちですが、灯火の乏しかった時代には月明かりはたよりになる灯りの役割を果たしていました。ことに一晩中夜空に浮かび、しかもたいそう明るい十五夜の月は特別にありがたい存在だったに違いありません。

盆の月(旧暦7月15日・新暦8月10日 

夏の終わりを感じ始める頃に盆がやって来ます。「盆の月」とは、盆の時期の十五夜の月の呼び名です。盆は地域により多少の違いはありますが、7月13日〜16日がその期間ですから、本来(旧暦)の盆は常に盆の月前後の、月の明るい時期に行われていたことになります。

盆は迎え火によって祖先の霊を迎え、迎え入れた祖霊を慰め、供養するために盆踊りを踊り、最後に送り火によって送り出すという一連の行事です。その行事の多くが夜間に行われることを考えると、盆は偶然に月の明るい時期と重なったのではなく、月の明るい時期を選んで行われたのだと考えられます。

中秋の名月(旧暦8月15日・新暦9月8日)

旧暦の8月15日の月を、中秋の名月といいます。旧暦では7〜9月を秋と考えましたから、8月はその真ん中。15日は暦月の真ん中の日ですから、8月15日は秋の真ん中の真ん中という意味で「中秋」と呼ばれました。

さまざまな行事が新暦の日付や便宜的に一か月だけずらした新暦の日付(いわゆる月遅れの日付)で祝われるようになった昨今ですが、さすがに中秋の名月だけは旧暦の日付で祝われ続けています。時代が変わっても、大きく欠けた月でお月見をするわけにはいきませんから。今年も旧暦の8月15日には、明るく輝く十五夜の月をながめながら、その月が今よりずっと明るく感じられたであろう昔に思いを馳せてみたいと思います。

旧暦のある暮らし 【葉月・長月

【葉月・8月】

■眠り流し

夏の暑さが極まる頃は寝苦しい夜が続いて疲れが抜けず、日中にふと睡魔に襲われるようなことがあります。昔の人々はこうした真夏の睡魔は悪い病魔を呼び込む元となると怖れ、これを祓うために川に入って禊ぎを行い、合歓木や笹や人形を身代わりにして川に流しました。こうした行事を眠り流し、あるいは眠た流しといいます。8月に行われる青森ねぶた祭や秋田竿燈まつりはこの眠り流しの行事が祭りの形になっていったものだといわれています。

■花火大会

夏の夜空を彩る花火。8月ともなると毎週どこかで花火大会が催されています。現在のような花火大会が行われるようになったのは江戸時代のこと。享保17年に起こった大飢饉で亡くなった人々の霊を慰めるために、その翌年に隅田川で行われた水神祭の打ち上げ花火がその起源だといいます。花火大会の始まりは、亡くなった人々の霊を慰める行事だったのです。

■頼みの節供( 新暦8 月25日)

旧暦の8月朔日、八朔のこと。この日は嵐となる日として怖れられた日で、収穫を目前に控えた稲に被害がないようにと、田の神に酒や団子を供え、世話になった人々に贈り物をして豊作を祈るという「田の実の節供」という行事が行われていました。この田の実の節供の風習がやがて一般にも広がり、いつしか「頼みの節供」と呼ばれるようになりました。

【長月・9月】

■二百十日( 新暦9 月1 日)

立春から数えて二百十日目に当たる日です。元々は伊勢地方の漁師の間で嵐のやってくる日として恐れられた日で、それが雑節として暦に書き加えられたものだといわれています。二百十日と八朔、それに二百二十日を加えた三日は天気の荒れる三悪日と呼ばれます。天気予報などない時代の生活の知恵といえるでしょう。

■月見団子

中秋の名月は別名、芋名月。中秋の名月(新暦9月8日)をながめる月見は一年の収穫に感謝し、その年に収穫した作物や果実を月に供える行事でもありました。月見団子は月に対するお供え物の一つ。関西ではその年の暦月の数にあわせて平年には十二個、閏月の入る年には十三個の団子を供え、関東では十五夜をあらわす十五個の団子を供えます。

■重陽の節供( 9 月9 日)

江戸時代までは人日(七草の節句)、上巳(桃の節句)、端午、七夕の節供と並ぶ五節供の一つとして祝われた節供で、菊の節供とも呼ばれます。重陽の節供には近隣の高台や丘に登り、長寿と一族の繁栄を願います。五節供の他の4つの節供は今も祝われ続けていますが、重陽の節供だけはなぜか影が薄く、忘れられた節供といった観があります。