歴史の表舞台から取り残され、長い間荒れ果てるままに放置されていた戦国の山城。2006年に総石垣の堅固なつくりから「日本100名城」に選ばれて以降、その雲海に浮かぶ雄姿は映画のロケに使われ、GoogleのCMに登場するようになってにわかに脚光を浴びました。政治の中心から外れたこの地にこれほどの城を築かせたのは、当時領内にあった埋蔵量豊富な銀山の存在でした。
文 : 藤沼 裕司 Yuji Fujinuma / 写真 : 吉田 利栄 Toshihisa Yoshida
下剋上の世、主家をしのいで銀山を掌握
「天空の城」「日本のマチュピチュ」などといわれている竹田城は旧但馬国、現在の兵庫県北部に位置する古城山(354m)山頂部を削平して築かれた典型的な山城で、国指定史跡になっています。山麓は京都から日本海にいたる山陰道と姫路から北上してくる播但道が通じる交通の要衝で、城は嘉吉3年(1443)に守護職山名宗全が但馬南部の抑えとして築き、城主として家臣の太田垣氏をおきました。
領内には9世紀初頭発見の生野銀山があって長らく山名氏の管理下におかれ、天文年間(1532~55)には一族の祐豊が石見銀山の採掘法を導入して増産に成功しました。しかし、山名氏は内紛や統治の不手際もあって衰退し、これを機に太田垣氏が独立、銀山も掌握してしまいました。その後、太田垣氏は銀山を狙う周辺諸勢力の侵攻をよく防ぎ城と銀山を守り通しましたが、織田信長の中国進出が始まるとさすがに持ち堪えられませんでした。
銀山を守るために防御機能を万全にした城
地方の小勢力の悲しさ、いったんは降伏して織田方についたものの毛利方に攻められて寝返ったため、天正5年(1577)再び織田勢に攻め込まれて城を開け渡し、太田垣氏は没落しました。城には豊臣秀吉の弟秀長が入り、その後桑山重晴、秀吉の天下掌握後の天正13年からは赤松広秀が城主になりました。広秀は15年間在城しましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため切腹を命じられ、城は廃され以後長年荒れ果てるままに放置されました。廃城は江戸時代になって城の役割は変わりこのような防備機能も不要となり、また山上の不便さもあってのことでした。銀山は徳川幕府の掌握するところとなり、代官所が開かれて幕末までその管理下におかれました。
竹田城は築城時から今日のような姿ではなく、石垣の高度な造成法や出土した瓦のつくりから廃城直前の広秀城主時代の大修築による遺構と考えられています。大修築は銀山の抑えを重視した豊臣政権の主導で行われ、城づくりの巧者が登用されて敵の侵入に対しあらゆる防禦機能を備えた堅固な要塞につくりかえられたとする説が有力視されています。
雲海に浮かぶのは朝の冷え込み厳しい秋の日
縄張りは山頂部に本丸と天守台を置き、ここを中心に三方に派生する尾根上の限られた平坦部を目いっぱい利用して階段状に櫓台や各曲輪を配置しています。城の全周は隙間なく石垣で固められ、特に天守台の石垣は高さ10.5m、上部にいくほど傾斜をきつくして立ちはだかります。三方向の曲輪ともほぼ直線上に連なりますが、北東隅の大手口から入城して以降の動線は複雑かつ巧妙に敷かれ、L字やコの字の曲りが連続して侵入者はその都度右折や左折を強いられます。
このような動線により敵の直進を阻んで侵入を遅らせ、さらに正面や側面、背後からも迎え撃つことが可能になります。動線のバリアはこれだけでなく、本丸に近づくにつれさらに中仕切りや迂回路など、防備のための細心の工作が施されていました。今日、遺構からこの城がいかに防禦に優れていたかは明らかですが、はたして建物はどうだったのか、これについては文献や史料などいっさいなく不明のままです。
現在、徒歩で竹田城に登るには、東麓に通じるJR播但線竹田駅が起点になります。駅を出て赤松氏の菩提寺の法樹寺脇から登城路をたどり、途中石を切り出した石切り場などを見ながら40分ほどで山上の城跡にいたります。バスの場合は駅前から20分ほどで中腹のバス停へ、そこからは20 分ほどの歩きになります。雲海に浮かぶ荘厳な姿を見られるのはだいたい10~11月にかけての早朝で、冷え込み厳しく風のない日がベストといわれます。
竹田城跡
兵庫県朝来市和田山町竹田古城山169
兵庫県朝来市にある山城跡。1431(永享3)年に但馬の守護大名・山名宗全が基礎を築いたとされ、太田垣氏が7代にわたって城主となったが、織田信長の命による秀吉