中山道ばかりか江戸の五街道の中でも、もっとも昔の姿をとどめるのが木曽路です。緑深い山間の街道筋に軒を連ねる家々、人里離れた路傍には風雨で傷んだままの石仏や道祖神、里も野も潤いに満ちて詩情豊か、かつては旅人泣かせの二つの峠越えも今では爽快なトレッキングコースになっています。
木曽路の旅、第4回目は、旧中山道では人気の妻籠宿と馬籠宿を繋ぐ旅。住民の高い見識に守られ昔のままにたたずむ妻籠宿、馬籠峠の登り口に位置する大妻籠はひっそりと山里の風情をたたえた小集落、峠の先の馬籠は石畳の坂道沿いに家並みが開けます。宿場を京側に抜けた先にある「是より北 木曽路」の碑で木曽路は終わります。

妻籠宿⇒馬籠峠⇒馬籠宿

妻籠宿 「どこか懐かしく、旅情をかきたてられる旧宿場町」

城跡入り口から急な坂を登り小さな流れを越えてしばらくたどると、口留番所跡があり地蔵沢橋を渡るといよいよ江戸から42番目の宿場妻籠宿です。ここは奈良井宿、馬籠宿とともに古い宿場町としての歴史的景観を見事にとどめ、木曽路を代表する観光スポットになっています。この歴史的景観が今に残るのは、まさに住民の高い見識によるものです。

高札場の下を通り水車を左に見ながら妻籠宿下町に入る
中町の家並み

維新後、妻籠は国道や中央西線が木曽川沿いに通されて繁栄から取り残され、衰退の一途をたどるばかりでした。その状態は長らく続きましたが、1967年(昭和42)に島崎藤村にゆかりのこの古い町並みを観光資源とした再生事業への取組みが始まりました。人々は町並み保存にあたり、家や土地を「売らない、貸さない、壊さない」という三原則を盛り込んだ住民憲章をつくり、さらに電線の地中埋設化や店頭の自動販売機禁止、各家のポストなどは周囲との調和に配慮するなど細かなルールを定めて貴重な町並みを蘇らせました。このような住民一体となっての取組みにより1976年、飛騨白川郷などとともに日本で最初に重要伝統的建造物群保存地区に選定され、全国の町並み保存運動の先駆けになりました。

中町の家並み
上町の石置き屋根の商家。この地方では昔はほとんどの家屋がこの屋根だった

宿場に入るとまず迎えてくれるのが高札場と水車、その先から道の両側に古い商家が続き、しばらく行くと右側に脇本陣林家住宅があります。脇本陣の様式を踏襲する貴重な建築で国の重文、特に明治天皇が休憩した上段の間は木曽ヒノキをふんだんに使い木曽大工が存分に腕を振るった広壮で閑雅なひと間です。藤村初恋の人といわれるゆふの嫁ぎ先で、彼女は晩年までここで過ごしました。敷地内に歴史資料館を併設し、南木曽町や木曽路の歴史、町並み保存に関する資料などを展示しています。その斜め向かいが本陣跡で、代々島崎氏がその役を務めました。藤村の母縫子(ぬいこ)の生家でもあり、次兄広助が養子に入っています。建物は一度失われ、1995年(平成7)に江戸後期の間取図を基に復元されました。

上町の家並み。行手は桝形になっていて道は右に曲がる。右上に見えるのは新道
桝形を曲がった旧道はこの石畳に降りてくる

その先で道は桝形になってほぼ直角に右折、さらに左折して寺下地区に入ります。ここは最初に保存事業が行われたところで、出梁造りの低い2階建て、蔀戸や竪繁格子をはめた建物がびっしり軒を連ねて昔のままの宿場の姿を残しています。とりわけ夕暮れ時、家々の軒先に明かりが灯もる頃の光景はどこか懐かしく、しみじみとした旅情をかきたてられます。ここから次の集落大妻籠までは徒歩で30分 ほど、大妻籠は間の宿でしたが今は取り残されたようにひっそりとした山里の趣をたたえ、切り開かれた斜面に家々が点在します。小さい集落ながら各家の規模は大きく、雄大に卯建を立ち上げた古民家が軒を連ねる一画もあります。街道を外れた畑の中に残る藤原家住宅は17世紀半ばの建物で、農家建築としては県内最古とされ県宝に指定されています。集落の外れには大きな庚申塚が立ち、その少し先から馬籠峠への登りが始まります。

寺下の家並み。この辺りがもっとも古い趣を残しているところで、妻籠宿保存の運動はここから始まった
出梁造りの大型民家が軒を連ねる大妻籠の中心部

馬篭峠 「木曽の奥深さ、森の豊かさを実感できる馬籠峠越」

馬籠峠へは庚申塚の先で車道と別れ、道標に導かれて深い木立の中に通じる石畳の道に入ります。しばらくゆるい登りが続いたあと、木立が切れて畑地になり下り谷の集落に出ます。人の気配が感じられないほど静まりかえる集落を抜け再び木立の中を行くと、右手に吉川英治の『宮本武蔵』で武蔵の修行したところとされる雄滝雌滝へ降りる道が別れます。二つの滝はさほどのスケールではありませんが、それでも暗い谷間に滝音を轟かせて流れ落ちる光景は壮観で圧迫感さえ覚えます。

妻籠の集落を抜けるとすぐに馬籠峠への登りが始まる
しばらく石畳の快適な道を行く

滝への分岐点から先、道は一部車道をたどる箇所もありますが、おおむね木曽五木が頭上を遮るように茂る深い森の中のゆるい登りが続き、樹齢約300年といわれるサワラの巨木を過ぎると開けた平坦地になり一石栃白木改番所跡(いっこくとちしらきあらためばんしょあと)にいたります。ここは木材や木工製品の持出しを取り締まったところで、その先には江戸時代の立場茶屋跡の建物が無料休憩所として開放されています。建物は出梁造りの堂々とした古民家で、沢水が引かれ、シーズン中は管理人もいて屋内の手入れも行き届き、囲炉裏を囲んでくつろぐこともできます。

木立を抜けるとさほど広くない耕作地
静まり返る下り谷の集落

ここから峠まではもうわずか、777m地点には“中山道ラッキーポイント”の標示とクマ除けの鐘、そこを過ぎて山腹を巻きながら石畳の道を行くと急に前方が開けて801mの峠に着きます。ここが現在の長野と岐阜との県境で、車を通すために峠上は大きく削られ、妻籠側から登ってくる車道はゆるやかにカーブしながら峠を越えて馬籠側に降っていきます。展望のない深い木立の中をひたすら歩いてきた身にとっては、この峠上の広がりにほっとするような安堵の思いと開放感を覚えずにいられません。車道の傍らには追いやられるように古びた茶屋の建物が残り、「白雲や青葉若葉の三十里」と詠んだ正岡子規の句碑が立ち、昔の峠越えの苦労を偲ばせています。

雄滝雌滝への分岐。右が滝へ降りる道
おたる川がわ(おたるがわ)を渡って再び山道を行く

馬籠峠を後に少し車道を降ってから旧道に入ると“クマ出没注意”の看板、そのすぐ先はもう峠の集落で、人とクマとの距離の近さにただただ驚くばかり。ここも間の宿で、18世紀半ば以降火災に見舞われていないため昔の家並みがそのまま残っていますが、2㎞先の馬籠が観光客で賑わっているときも、ここはいつもひっそりとして往来するのは峠越えを楽しむ人ばかりです。集落の南の外れには石垣で囲い植栽を施した中に「峠之御頭頌徳碑(とうげのおかしらしょうとくのひ)」があります。ここはウシを使って荷役の運搬に従事した牛方が多くいたところで、碑は幕末に中津川の問屋と賃金をめぐってもめ、そのとき勝利に導いた牛方のリーダー今井仁兵衛を讃えて立てられました。この牛方騒動は藤村の『夜明け前』にも描かれています。

一石栃の白木改番所跡。1869年(明治2)まで伐採禁止木取締の役人が常駐した
一石栃立場茶屋跡。江戸時代の茶屋の姿をとどめる休憩舎

これから先、急坂を降った右手にこの地の名物栗強飯を詠った十返舎一九の狂歌碑を見てさらに降り、車道を横切って竹林の中の石畳の道をたどると水車小屋があり、脇に水車塚が立てられています。塚は明治末に山津波で命を落とした一家の供養碑で、藤村による哀悼の一文が記されています。その先さらに竹林の中の道を行き、いったん車道に出て石の階段を登ってしばらくたどると、恵那山(2191m)のゆったりとした半円状の山容を眼前にする展望広場に出ます。そのすぐ下が馬籠宿北の入り口で、高札場が置かれています。

ラッキーポイントを過ぎてひと登りすれば峠はもうすぐそこ。左へ曲がった先わずかで標高801mの馬籠峠
馬籠峠。妻籠からの道は茶屋の建物左手に出てくる

妻籠宿から馬籠宿までは直線で8㎞あまり、徒歩コースでも道はしっかり整備され、鳥居峠越えのような急登の連続や険しい箇所もなく、おおむねゆるやかな登降に終始します。とりわけ妻籠側ではほとんどうっそうとした木立の中を歩きますので、木曽の奥深さや森林の豊かさを実感でき、深山の清澄な空気に洗われて爽快な山旅を楽しむことができます。

水車塚のある車道まで降りる。写真左に曲がったところで水車が回っている
水車小屋のある広場。一画に山津波で亡くなった蜂谷一家供養の塚

馬篭宿。尾根上に石畳の坂道が続く藤村ゆかりの宿場町

島崎藤村の故郷、『夜明け前』の舞台として多くの人が訪れる馬籠宿ですが、江戸時代の旅行記では「宿あしし」「駅舎のさま鄙びたり」など、賑わいからはほど遠い宿場だったようです。ここも他の宿場同様、たびたびの火災に見舞われ、現在の町並みは明治半ばの大火以降の再建です。

馬籠宿江戸側入り口の高札場。背後の石垣は展望広場
坂を登りきったところが馬籠宿北の外れ

町並みは開けた尾根上に形成され、高札場から降ってくる石畳の坂道をはさんで両側に民芸店や食事処が段状に続きます。傾斜地に家を建てますので各家石垣を築いて敷地を確保し、強風にさらされる尾根上のため昔は板葺屋根には石を並べて重しとしていました。この家々の土台をなす低い石垣と、幾何学模様さながらに丁寧に敷き詰められた石畳など、石をふんだんに使った町づくりが馬籠宿の景観を特徴づけています。石畳は清掃が行き届き、いつも塵一つなく保たれて訪れる人を気持ちよく迎えています。

馬籠のランドマークでもある丁寧に敷き詰められた石畳の道

石畳を中ほどまで降ってくると脇本陣蜂谷家跡で、今は馬籠脇本陣史料館として古文書や民具などを展示しています。1軒おいた大黒屋は代々造り酒屋で初恋の人ゆふの生家、その隣が本陣跡で藤村の生家、今は藤村記念館になっています。藤村は本陣を務めた正樹の4男としてここに生まれ、幼少期を過ごしました。記念館は1947年(昭和22)に村人総出で建てられ、冠木門を入った奥の建物に多数の関連資料を所蔵しています。ほかにも清水屋資料館、槌馬屋(つちまや)資料館など、藤村ゆかりの資料を所蔵する民間の資料館があります。

馬籠宿の建物の多くは明治半ばの大火以降の建築のため、町並みに古い面影を求めるのは難しい
馬籠宿本陣跡藤村記念館

記念館から降ってすぐの路地を西に入った先には、島崎家の菩提寺で『夜明け前』に万福寺として登場する永昌寺があり、境内の下手、スギ木立の傾斜地に島崎家代々の墓があります。家並みの裏側になるその一帯は、傾斜地に小さく区切られた畑が点在し、街道筋の賑わいとは無縁の静かな山村の風情をたたえています。石畳まで戻って降りついたところが京側の入り口になる車屋坂の桝形で、民家の軒下では大型の水車が重い音をあげながら回転し、それを右下に見て直角に左折、その先を今度は右折して馬籠宿を後にします。

馬籠宿京側の桝形
京側から見上げた桝形

その先、中山道は車道を横切りのどかな田園地帯の降りになります。降り始めて最初の集落荒町の右手に見える小丘は馬籠城跡で、豊臣秀吉対徳川家康の小牧長久手の戦いのとき、ここを守っていたのは木曽氏の家臣だった藤村の祖先重通(しげみち)でした。そこから藤村の父正樹を讃える島崎正樹翁記念碑の立つ諏訪神社、正岡子規の「桑の実の木曽路出づれば穂麦かな」と詠んだ句碑のある子規公園を過ぎるといよいよ新茶屋の集落に入り、藤村の筆による「是より北 木曽路 藤村老人」の碑が江戸からはるばるたどった木曽路の旅の終わりを告げます。碑は1957年に、藤村記念館の落成10周年を記念して地元有志により立てられたもので、そのとき藤村68歳でした。

新茶屋「是より北」の碑
十曲峠。石畳を登った先が一里塚

「是より北」の碑と並んで芭蕉の「送られつ送りつ果ては木曽の龝(あき)」と詠んだ句碑があります。句碑は芭蕉がここを歩いた200年後の1842年(天保13)に、美濃派の俳人により立てられたものです。道の反対側には「一里塚古跡」の碑があり、ここがかつての信濃と美濃の国境で、中山道はここを境に木曽路と美濃路に別れます。美濃路の始まりは石畳の道で、復元部分を含めて840mほど続きます。

十曲峠下、うっそうとした木立の中を落合宿へ向かう
石畳終点付近。歩く人がいないのか苔むした道が続く