江戸時代、多くの藩で藩士教育のための藩校を開設していましたが、高邁な理念、多角的で先進的な学問領域などで際立った特色を有し、抜きんでていたのが水戸藩の弘道館でした。ここでは、茨城県在住の郷土史家と郷土写真家によって、この弘道館の物語を綴ります。

玄関前の左近の桜の葉が色づくと、玄関廊下にその美しい彩りを映し、史跡の秋もたけなわとなる。撮影11月

斉昭の登場で水戸藩が歴史の舞台に

天下の副将軍として名をはせた徳川光圀以降、水戸藩は長い停滞期を迎えていました。しかし、斉昭が第9代藩主に就任すると(文政12年=1829年)、水戸藩は一躍歴史の表舞台に躍り出ます。

斉昭は,倹約の奨励や、検地、殖産興業、異国船に備えた海岸線の防御などのさまざまな改革を精力的に推し進めました。それらは当時としては先駆的なものであり、幕府の老中水野忠邦の天保(1830~1843年)の改革は水戸藩を手本にしたものといわれています。

新時代を担う優れた人材を育成する場として建設された弘道館は(天保12年=1841年竣工),斉昭の改革の目玉というべきものでした。弘道館には,学問は和学、漢学、算術、天文学、医学、武芸では剣術、馬術、鉄砲術、水泳などさまざま科目の授業が行われ、当時はもとより現代でも幕末の総合大学と高く評価されています。

弘道館の庭には蝋梅が7〜8株あり、厳冬に薫り高い独特の美しい花を咲かせる。撮影2月
庭全体に広がる梅林から見る玄関・正庁。梅は2月の下旬から3月下旬まで咲き続ける。撮影2月
玄関前の山桜、左近の桜。京都御所から拝受したとのこと、満開の風景は圧巻。撮影4月

天下に広まる弘道館記

弘道館の由来にはこんな話があります。実は弘道館という名の藩校は、水戸藩が建設する前から複数存在しており、井伊直弼の彦根藩でも使われていたのです。斉昭はなかなかの策士でした。

まず、弘道館の建設の前に側近の藤田東湖(文化3年=1806年〜安政2年=1855年)に「弘道館記」を書かせました。当時、日本有数の文筆家でもあった東湖の文章は、簡潔明瞭な問答形式で書かれ、天下に先駆け、新たな時代を創る斉昭たち水戸藩志士たちの気概があふれだすような名文でした。

幕藩体制が大きく揺らいでいる中、大名や公家、市井の浪人に至るまで変革を求めていたのではないでしょうか。弘道館記は武士階級に熱狂的に受け入れられ、水戸の弘道館は開館前から天下に知れ渡ったのです。斉昭の満面の笑みが浮かんでくるようですね。今の世に生まれていれば、とても優秀なCMディレクターにでもなったことでしょう。

余談になりますが、もしかして、江戸城中で井伊直弼が尾張の殿様に「貴藩の弘道館は水戸藩にあやかったとか。御三家を手本にするとは殊勝である」と褒められ絶句した。こんなこともあったのかもしれません。

5月に入り新緑の庭につつじが鮮やかに咲く。特に正庁正席の間の脇の1株が来場者の目を惹く。撮影5月
庭全体が緑に変わる初夏、最後の将軍徳川慶喜公が大政奉還の後蟄居した至善堂廊下から見る梅林。撮影5月
雨が降ると正門から玄関に続く石畳が焦げ茶の重厚な色に変わり、弘道館の歴史を感じさる。撮影6月

弘道館は最先端の医療機関でもあった

現在の弘道館は正庁とその一部を残すのみとなってしまいましたが、かつては医学館が存在していました(天保14年=1843年開設)。弘道館は単に学問や武術を学ぶだけでなく,人の命を救う最先端の医療機関でもあったのです。藩医の本間玄調(文化元年=1804年~明治5年=1872年)は若い頃に、世界で初めて全身麻酔手術を行った華岡青洲に師事しました。なぜか青洲は、自分の麻酔技術を広めようとせず、門外不出としていました。

玄調は医術とは独占するものではなく、広く知らしめ多くの人の命を救うものだと考えていました。このような考えから、玄調は麻酔の技術を無断で公開し、破門になったともいわれています。それでもへこたれない玄調は、さらに長崎に赴き、シーボルトから西洋医学を学びました。弘道館の医学館で玄調は青洲の麻酔技術で、脱疽の重症患者に対する日本で初めての下肢切断手術や乳癌の手術など、江戸でも行われない高度な外科手術で多くの人の命を救いました。

今、弘道館には当時の生徒たちの肖像画が展示されています。その中に、少なからずあばた顔の子供たちが描かれております。この時代、天然痘が猛威を振るい、運良く助かったとしても、全身に天然痘の跡ができ、それは一生消えませんでした。

西洋医学に通じていた玄調は、天然痘の予防には牛痘接種が効果があることを知り、あらゆる伝手を頼り、長崎から牛痘を取り寄せました。しかし、牛痘摂取を行えば牛になると人々は恐れ、なかなか普及しませんでした。それを聞いた斉昭は、自分の子供二人に衆人の前で牛痘摂取を受けさせたのです。牛痘摂取を普及させるため、斉昭だけでなく佐賀藩主の鍋島直正も自分の子供に牛痘接種を行っています。

斉昭らの行動は、当時の西欧や中国などの支配層にはありえません。日本の武士道精神とは本当に驚嘆すべきものであり、我々日本人は大いに誇るべきではないでしょうか。牛痘接種を世界で初めて試みた英国の医師ジェンナーでさえ、自分の子供ではなく、使用人で身寄りのない少年に接種していたといわれているのですから。

8月盛夏を迎えると、2本の百日紅の巨木が深紅の花を見せてくれる。特に至善堂前の老木はけなげに華やかに咲く。撮影8月
玄関前の左近の桜の葉が色づき一面の落葉になると、弘道館はすっかり秋の風景に変わる。撮影11月
秋も深まり梅林を始め多くの木々が冬支度になる頃、至善堂脇のもみじが最後の彩りを見せる。撮影12月

斉昭没後、藩内に激しい抗争が

偉大な藩主であった斉昭の死後(万延元年=1860年没)、水戸藩は下級武士の天狗党と上級武士の諸生党に分かれ、激しい抗争を繰り返すことになるのです。

藩内の抗争の芽は、斉昭の存命中から芽生えていました。水戸藩には、光圀以来、才能ある者は、身分を問わず取り立てるという伝統がありました。天保の改革に活躍した志士たちの多くは下級武士の出身でした。身分の低い者たちが藩の要職を占めるのは、代々の重臣たちにとっては当然面白くなかったのでしょう。皮肉なことに,能力主義という光圀以来の伝統が、藩内の抗争を生み出してしまったともいえるのではないでしょうか。

明治元年(1868年)に弘道館の戦いが起きました。今も弘道館の正門には、この戦いの銃弾の跡が残っているほど壮絶なものでした。この戦いで、弘道館の文武の教場や医学館など大部分が燃えてしまったのです。この戦いのとき、本間玄調は医者として、この戦いの負傷者の治療にあたっていたのです。玄調はどのような思いで、燃えさかる弘道館を見ていたのでしょうか。

幕末、日本が大きく変わり始めるとき、忽然と現れ、天下に先駆け、日本を新時代へと導いた水戸藩。その輝きは、新時代が幕開けようとしたとき、儚くも弘道館の炎上とともに歴史の彼方に消えてしまったのです。

毎年、寒梅の咲く頃、水戸は偕楽園の観光シーズンを迎えます。ぜひ、弘道館にも足を運んで、天下に先駆けた斉昭と志士たちの熱き軌跡を肌で感じてみてはいかがでしょうか。もしかしたら、あなたの抱いていた日本の歴史がほんの少し変わるかもしれません。

雪がしんしんと降る弘道館の正門。一面が白一色になると、静かな史跡は江戸時代にタイムスリップしたかのよう。撮影2月
朝早く未だ来場者もなく、雪の降り続く静まりかえった正庁前の対試場。史跡弘道館の最高に素晴らしい瞬間。撮影2月