スペイン語で「大鍋」を意味するカルデラは火山活動で生まれた巨大な窪地。大量の溶岩が吹き出した後、地下の空洞に大地が落ち込んで形作られた独特な地形です。
阿蘇くじゅう国立公園の阿蘇のカルデラの周辺には、日本一と言われる広大な草原が広がっています。それは1000年以上も前から人々が野焼きをすることで守られてきた美しい風景です。

人が野焼きをすることで守られてきた美しい緑の草原

世界でも最大級の規模を誇る阿蘇のカルデラには、美しい緑の草原が広がっています。その総面積は約2万2000ヘクタールといい、東京ドームなら4600個あまりがすっぽりと収まってしまうほどの広さです。

大観望や草千里といった有名な展望スポットに行くと、阿蘇の草原のスケールはすぐに実感できるでしょう。カルデラ中央にそびえる阿蘇五岳の山裾や外輪山の稜線には見渡す限りに草原が広がり、それが風に揺られてゆったりとたなびいていく様子はまるで草の海のようです。しかも、この阿蘇ならではの雄大な眺めが、古くから人の手で守られてきたものだと言われれば、たいていの人はさらに驚くのではないでしょうか。

野焼きをしていない正面の山裾は冬枯れした茅が残ったまま。野焼きをした草原との違いは一目瞭然。

「草原は野焼きをせず、2〜3年ほったらかしにしておくと、たちまち藪だらけになってしまいます。毎年春先に野焼きをして、その後もきっちり手入れをしていかないと、緑豊かな草原は維持することができないのですよ」

こんな話を聞かせてくれたのは町古閑牧野組合の組合長を務める市原啓吉さんでした。市原さんは阿蘇の東麓で牛飼いと野菜作りの仕事をしながら、野焼きのボランティアを育成したり、小中学生の野焼き体験や草原での環境学習を行うなど、さまざまな活動に取り組んできました。去年からスタートした『牧野ガイド』というのもそのひとつ。地元の人が案内役になり、牧野(放牧地や採草地)で国内外の人々にサイクリングやトレッキングといったアクティビティを楽しんでもらおうという企画です。

毎年3月になると阿蘇ではあちこちで野焼きが行われます。野焼きの後の草原は真っ黒ですが、すぐに新芽が吹き出してきます。

ちなみに阿蘇の草原は平安時代の法律書『延喜式』にもその記述があり、以来、1000年以上の長きにわたって人々の生活を支えてきました。それがここ数十年ほどの間に大きく変わろうとしていると市原さんは言います。

「私が高校生の頃、阿蘇の草原は5万ヘクタールありました。しかし、それが現在では半分以下にまで減少しています。こうした状況のなか、草原を守り、次世代へと引き継いでいくためには、草原のすばらしさをより多くの人に伝えていくことが何より大切だと思うのですよ」

草原を知り、学ぶことで、その大切さを次世代に伝える

阿蘇の農家に生まれ、幼い頃から草原に親しんできた市原さんですが、その本当のすばらしさに気づいたのは今からほんの20年ほど前のことだといいます。当時、牧野組合の多くでは人手不足から野焼きを実施できないところが増えていました。そこで導入されたのが野焼き支援ボランティアです。このとき市原さんはボランティアの人たちを受け入れ、野焼きや輪地切り(防火帯作り)のやり方を指導することになったのですが、彼らボランティアの草原に対する関心の高さにびっくりしたといいます。

夏から秋にかけて行われる輪地切りという作業。輪地というのは延焼を防ぐ防火帯の事、その総延長は阿蘇全体で500㎞にもなる。

「たとえば草原にはクララという野草が生えています。これは牧草にならないので牛飼いにとっては単なる邪魔な草なのですが、しかし、クララがないとオオルリシジミという蝶は生きられないのですよ。そんなことをボランティアの人たちから逆に教えられていったのです」

一見、牧草が青々と茂っているだけに見える阿蘇の草原ですが、実はそこには約600種もの植物が生えています。もともと野焼きや草刈りは牧畜のために行ってきたものですが、そのおかげで日当たりや風通しが良くなり、多種多様な草花が育つことができるのです。そして、こうした環境を求めて、さまざまな虫や鳥、動物たちも集まってきます。

「どこにでも転がっている石ころを拾ってポケットに入れておいたら、実はそれが世界でも珍しい貴重なものだった。私にとっての草原はそんな存在だったのですよ」と市原さんは話してくれました。

阿蘇を代表する「あか牛」は明るい茶色をした肉牛。4月から12月にかけて約7000頭が放牧される。

阿蘇の草原は生業の場であるだけでなく、とても貴重な生き物の宝庫です。そしてもうひとつ、市原さんが注目しているのは、人々を癒やし、融合させる草原の不思議な力でした。

たとえば小中学生の野焼き体験では、こんなことがあったそうです。教室では手の着けられない問題児がみんなの嫌がる仕事を進んで引き受けたり、彼のことを毛嫌いしていた子供たちも、そんな姿を見て自分から手を貸すようになったり……。来た時と帰る時で子どもたちの表情がまるで違うと、バスの運転手さんが驚いたこともあるそうです。

「まさに草原というのは人間にとって宝物なんですよ」と市原さんは言います。

春先に野焼きをすると草原は真っ黒になります。しかし、一雨ごとに新芽が吹き出し、一月もたつとあたりは見違えるほど鮮やかな一面の緑になります。野焼きをせずに冬枯れのままの草原とは対照的な姿に生まれ変わっていくのです。

 

草原のすばらしさを次世代に伝えるため、市原さんは子どもたちとの交流を大切してきたという。

<阿蘇くじゅう国立公園>