京都市街の北東に高くそびえる比叡山。古くから都の鬼門を守る霊山として崇(あが)められ、今なお開山以来の歴史と伝統を継承する修行道場として、厳粛な趣をたたえています。平成6年(1994)には日本の文化、伝統美の創出を担った「古都京都の文化財」の一資産として世界文化遺産登録されました。

京都嵐山から見た比叡山。手前は渡月橋

既成仏教と対立しながら開かれた新宗派

比叡山延暦寺は、延暦7年(788)、最澄が人里離れた比叡山中を修行の地と定め、現在の根本中堂(こんぽんちゅうどう=総本堂)のあたりに小堂を建てたことに始まります。当時はまだ延暦寺の寺号ではなく、一乗止観院(いちじょうしかんいん)と称していました。

最澄は神護景雲(しんごけいうん)元年(767)、現在の滋賀県に生まれました(*1)。若くし仏門に入り、延暦4年、19歳のとき奈良東大寺戒壇で受戒(じゅかい)(*2)して正式に僧として認められて後、比叡山に籠って研鑽を重ねました。そして延暦23年、38歳のとき後に真言宗を開いた空海らとともに唐に渡り、天台山で天台の奥義を極め、あわせて密、禅、律を学び貴重な仏典を携えて帰国、比叡山に天台宗を開きました。

最澄は天台の教えを広めるためには優れた僧の養成が必要と考え、奈良の旧仏教(*3)が実権を握っている戒壇とは別に、独自に天台宗の戒壇を設立し、比叡山で修行した者がここで正式に僧として認められるように朝廷に働きかけました。当然旧仏教側でこれを容認するはずはなく、彼らの激しい抵抗にあいながらも自説を主張し続けましたが実現にはいたらず、弘仁13年(822)、波乱に富んだ56歳の生涯を閉じました。

そのわずか7日後、念願の戒壇設立の許可が出され、翌年には嵯峨天皇により、開基(かいき)の年号にちなんだ延暦寺の寺号が許されて、宗門興隆の基盤が整いました。そして貞観(じょうがん)8年(866)には、最澄に伝教大師の諡号(しごう)が贈られました。これは日本における大師号の始まりになりました。

*1 :最澄:天平神護2年(766)説もある。最澄の年齢は神護景雲元年誕生説に基づき、数えで表記。

*2 :受戒:当時、僧の身分は国家資格で、受戒は僧となるための戒律を授けられること。戒壇は戒律を授ける場、奈良東大寺のほかに下野薬師寺(栃木県)と筑前観世音寺(福岡県)にしかなかった。

*3:旧仏教:国に認められた三論、法相(ほうそう)、華厳、律、成実じつ(じょうじつ)、倶舎(ぐしゃ)の6宗。平安時代に興った天台や真言の新仏教に対し、旧仏教といわれる。

新宗派開宗の基盤をなした4宗相承の学問体系

平安時代になると南都の旧仏教は衰退し、代わって天台、真言の2宗が主流になりました。天台では円仁、円珍が出て宗門の発展に尽くし、貴族階級の信任を得て寺領の寄進を受けるなど、財政的にも安定しました。

しかし、次第に2人の門徒間に対立が生じ、比叡山による山門派と山を降りて園城寺(おんじょうじ)を拠点とした寺門派に分裂、ともに武装化して激しく争いました。やがてこの僧兵集団は強大な勢力になり、神輿を担いで朝廷に無理難題をもちかけたり、市中で乱暴狼藉を働いて恐れられました。

荒法師が世間を騒がせる一方で、平安末から鎌倉時代にかけて比叡山は幾多の名僧を輩出し、彼らは次々と独立して六つの新宗派(*4)を開きました。それらは浄土系や禅のいわゆる鎌倉新仏教で、その根底をなしたのは四宗相承(ししゅうそうじょう)という最澄の理念でした。そのため、比叡山は日本仏教の故郷と言われるようになりました。

南北朝以後、比叡山は武力を有するだけに、しばしば攻撃の対象にされました。特に元亀(げんき)2年(1571)には織田信長の焼討ちで全山焦土と化しましたが、その死後、豊臣秀吉に再興が認められて再び法灯が灯り、あらためて寺領が定められました。

江戸に幕府が開かれると、徳川家康に重用された天海が鬼門の方角にあたる上野に東叡山寛永寺かんえいじ(とうえいざんかんえいじ)を建立、そのため天台宗の実権は一時期そちらに移りました。それでも比叡山の復興は継続され、寛永19年(1642)には根本中堂が再建されました。

*4:新宗派:良忍による融通念仏宗、法然の浄土宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗。

東棟。戒壇院

限りなく人間の限界に挑む過酷なまでの行

天台宗の教義は、いかなる人々もすべて仏になれるという一乗思想に基づいています。そして、教えを盛んにし、人類の救済、国家社会の繁栄、仏国土建設のために努力することを説き、天台や密、禅、律の四宗に念仏を加えた総合的な見地からこれらの課題に取り組むとしています。

このように、天台宗では一宗一教義に固執することなく、一つの考えにとらわれることなく、より高い次元で仏の絶対的境地を希求する態度を理想としています。そのため『法華経』を主要経典としていますが、ほかにも『阿弥陀教』や『大日経』なども重視しています。

本尊についても特に定められた規定はなく、各寺院諸堂塔の由緒や事情により崇める仏はさまざまです。それは一念三千(*5)の境地に到達することにより、仏はそれぞれの心の中に現れるという本尊観によります。

過酷な行も天台宗の特徴です。籠山行の中でも特に厳しいのが十二年籠山(ろうざん)で、朝2時から勤行(ごんぎょう)、朝夕、最澄廟に膳を供え、仏の好相を感得するために地に全身を投げ出して拝礼する五体投地(ごたいとうち)を1日3000回行うなど、言語を絶する辛苦を伴います。

千日回峰行(かいほうぎょう)は平安時代に始まる荒行で、比叡山中を毎日ひたすら歩き、7年で満行となります。5年700日の行を終えた段階では、断食断水不眠不臥ふがという命がけの行が課せられます。行者は途中で行を止めるときは自害する覚悟で臨み、首をくくるための紐や短剣を携行しました。

*5:一念三千:心の中にまたたく一瞬一瞬の出会いにも、地獄から仏に至るいっさいの世界が存在するとされている。

西棟_常行堂と法華堂

一山全域が世界遺産エリア

延暦寺は単独の伽藍ではなく、比叡山中に立地する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)と呼ばれる三つの地域に点在する堂塔150ほどの総称で、山内全域を境内地としています。その広大な境内地全域が世界遺産登録エリアになっています。この三つの地域は「三塔」あるいは「三院」とも呼ばれ、それぞれに本堂に相当する建物があり、独自の発展をとげてきました。

東塔は延暦寺発祥の地で、中心となるのが根本中堂です。一乗止観院の後身で、最澄作とされる薬師如来像を安置しています。ほかにも戒壇院や浄土院などの重要な建物があり、前者は最澄死後、弟子たちにより建てられ、現在の建物は江戸前期の建造です。後者は最澄の廟所で、山内でもっとも神聖な場所とされています。

西塔は第2代座主、円澄(えんちょう)の釈迦堂建立が発祥で、現在の堂は信長の焼討ち後、麓の園城寺から移築したもので、山内最古の建物です。横川は西塔の北約4㎞、円仁が隠栖した地で、本堂にあたる横川中堂では平安期作といわれる木造聖観音菩薩像を本尊としています。近くには、おみくじ発祥の地とされる元三(がんざん)大師堂もあります。

山内にはたくさんの貴重な建造物が点在します。これらは世界遺産になったことで、国際的にもかけがえのない財産となりました。保存という問題を考えるとき、京都市中の他の文化財とは異なり、建築的、美術工芸的な視点ばかりでなく、山岳修行の伝統を守るためにも、霊場としての厳粛な環境の維持が望まれます。

横川_横川中堂

比叡山延暦寺

滋賀県大津市坂本本町4220
TEL:077-578-0001(代)

https://www.hieizan.or.jp

 

参考

井上靖他監修『古寺巡礼京都26延暦寺』淡交社、1978
『比叡山歴史の散歩道』講談社、1995
村井康彦編『京都事典』東京堂出版、1993