青森県西南部から秋田県北西部に広がる植相豊かな山岳地帯。千古不易の森が残り、ブナを育んだ貴重な森林生態系がよく維持されていることが評価され、1993年、屋久島とともに日本で最初に世界自然遺産登録されました。

天狗峠から望む追良瀬川源流、世界遺産登録のブナ林。

苛酷な条件下で生育するたくましい落葉広葉樹

東北の日本海寄り、東西に1000m級の峰々を連ねて青森・秋田の県境をなす白神山地。200万年ほど前、日本列島の地殻運動が盛んになったころに海底から押し上げられ、その後もさらに隆起を繰り返して現在の姿になったと考えられています。最高所は青森県側に聳える向白神岳の1243m、隆起は今なお続き、1年間に1.3㎜の変動が観測されています。

位置的に日本海側気候の影響下にあり、冬には大陸からの乾燥した風が対馬暖流の水蒸気をたっぷり吸収して、この地に重く湿った雪を大量に降らせます。山々は静まりかえり、気温は-15℃まで下がります。年間降水量は3600㎜前後、これは平野部のおよそ3倍で、このうち1500㎜ほどが冬の雪と言われます。

このような湿潤寒冷な気候こそブナにとって好都合で、北国の厳しい環境が脈々と森を維持してきました。ブナは落葉広葉樹で、日本では北海道渡島半島を北限に、南は鹿児島県大隅半島までに分布します。樹高30m、幹回り1.5mほどになり、樹皮は灰白色でなめらか、積雪の多い日本海側と雨の多い太平洋側では樹形に若干の違いが見られ、前者は直線的に幹が伸び上がり、後者は樹幹が太く枝別れします。葉は8㎝ほどでほぼ卵形、前者のほうがやや大きめで、丸みをおびています。

ブナの森に歳月を重ねたカツラの巨樹、初夏の森では空気も緑に染まる。

今なお残る千古不易、人跡未踏の森

これまでの調査で、8000年ほど前にはすでにこの地にブナ林が出現していたことがわかっています。ちょうど縄文時代の半ばで、東日本の文化もこのころに始まるとされています。当時の人々は、もっぱら狩猟採取に生活の糧を求めましたが、そこで重要な役割を担ったのは言うまでもなく各地の豊かな森です。

近年、ランドサット衛星の写真をもとに植物の生育状況を調べたところ、白神山地とその周辺では450平方㎞におよぶブナ林の広がりが確認されています。そのうち160平方㎞ほどは、いまだまったく人の手の入らない原始のままの姿で残されています。世界遺産登録されたのはこの範囲で、登録面積は周囲の緩衝地帯を含めて169.7平方㎞におよびます。

その千古不易の森の中では、連綿とブナの世代交代が繰り返されています。ブナの寿命はふつう200年ほどとされますが、ここでは樹齢200~300年と推定される巨木も珍しくなく、また、幼木から成木や老木、倒木に至るまで、あらゆる世代のブナを観察できます。

これまで八方に枝を張りめぐらせていた老樹が寿命で倒れると、大きな空間ができて光が射し込むようになり、そこに新しい生命が息吹き始めます。このような新旧の交代現象により、白神の森は維持されているのです。

十二湖に茂る森、秋雨が秋の彩りを日々濃くしてゆく。

豊かな森の形成に欠かせない倒木や落葉

ブナの生長は困難きわまりなく、たいへんな時間を要します。せっかく芽生えても、太陽の光に恵まれずに姿を消したり、動物に食べられたりすることもあります。運よく光の当たるところに根を生やした苗でも、生長は年に20~25㎝ほど、それでも2~3年のうちに枯死してしまうものも少なくありません。

4、5年生き延びてようやく生長の見込みがたちますがそれからが長く、40年ほどたっても樹高は5mほど、樹径は10㎝前後にしかすぎません。果実を結ぶようになるのはさらに先で、70~80年もの歳月を要します。成木になっても果実をつけるのは3年に一度の割合で、ほとんどの樹がそろって実をつけ豊作になるのは7、8年に一度しかありません。

成木は春になると、枝をいっぱいに広げて葉を茂らせ、雨が直接山肌を打つのを防ぎ、夏には地表の水分が大量に蒸発するのを妨げます。秋には黄葉し、果実を落としたあとから葉を散らします。その量は1haあたり2.8tにも達すると言われます。落葉の働きは重要で、腐葉土になって雪解け水や雨水を蓄えたり、虫や微生物に格好のすみかを提供します。また、寿命がきて倒れたブナの老樹は、朽ちて他の樹木や生物の生存に欠かせない栄養素を供給し、豊かな森の形成に貢献します。

初夏の雨にあふれる十二湖・沸壷の池、ブナやカツラなどの緑葉が瑞々しい。

貴重な森林生態系保全のための厳しい規制

四季折々、白神の峰々を彩るブナの原生林は世界最大規模の広がりを誇り、太古以来のきわめて学術的価値の高い自然が形成されています。 植物の種類は500種以上を数え、森の中にはブナ以外にもカツラやハリギリ、アサダなど落葉広葉樹の大木も多く、また多種多様な植物群落の共存する姿も見られます。

森に棲む動物や鳥、昆虫類は2000種以上、特別天然記念物のカモシカ、天然記念物のイヌワシやクマゲラが棲息しますが、この鳥2種は絶滅が心配されています。一方、近年ではニホンジカが頻繁に目撃されるようになり、その対策が急がれています。

白神山地の核心部には道らしい道はなく、現状のまま保護するという方針から、今後も恒久的に登山道などの整備の予定はありません。世界遺産登録以降は核心部への入域も制限され、秋田県側では“原則入山禁止”、青森県側では事前の届出が必要になりました。

ブナ林が残るのは核心部だけではありません。白神の森遊山道では樹齢200年以上の巨木が多く、核心部同様の景観を呈し、十二湖は広大なブナの森に33もの湖沼が点在する別天地です。また、白神山地北部を横断する林道、白神ラインの途上からは遺産登録の対象になった白神岳東麓のブナ林を望見できます。

所在地
青森県鰺ヶ沢町、深浦町、西目屋村、秋田県藤里町

問い合わせ
白神山地ビジターセンター
青森県中津軽郡西目屋村大字田代字神田61-1
Tel:0172・85・2810
http://www.shirakami-visitor.jp

アクセス
R弘前駅から車で約40分

文: 藤沼 裕司 Yuji Fujinuma

フリー編集者、記者。動植物、自然、歴史文化を主なテーマに活動。

写真: 石橋睦美 Mutsumi Ishibashi

1970年代から東北の自然に魅せられて、日本独特の色彩豊かな自然美を表現することをライフワークとする。1980年代後半からブナ林にテーマを絞り、北限から南限まで撮影取材。その後、今ある日本の自然林を記録する目的で全国の森を巡る旅を続けている。主な写真集に『日本の森』(新潮社)、『ブナ林からの贈り物』(世界文化社)、『森林美』『森林日本』(平凡社)など多数。