風光明媚な長野県には、歴史と伝説に包まれた数々の古道があります。このシリーズは、実際にその古道を一つ一つ訪ね、そこに綴られた物語をお伝えするものです。
今回は、長野市・善光寺から白馬村までの、謎めいた鬼女伝説が残る「鬼無里街道(きなさかいどう)」を車で訪ねました。(3月15日取材・撮影)

善光寺を起点に白馬三山を望む白馬村へ

鬼無里街道は、長野市中心部から西へ、鬼女伝説の残る里を通って北アルプス山麓の白馬村(はくばむら)を結ぶ山間(やまあい)の道。かつては急流を見下ろす断崖絶壁をたどる悪路でしたが、近年の改修により自然が身近に迫る快適なドライブコースとなり、フィナーレでは白馬三山(しろうまさんざん)を真正面に大パノラマが展開します。

今回のルート。表示の所要時間については、車でノンストップで走った場合の目安となります。

「遠くとも一度は参れ善光寺」

「遠くとも一度は参れ善光寺」と唱われ、いつも善男善女で賑わう信州を代表する大寺院善光寺。その境内に向かう参道をたどり仁王門をくぐった先に、さして広くはない町道が東西に延びています。東に向かう道は旧北国道街(ほっこくかいどう)、西へ行くのは旧鬼無里街道で、そこには「日本百景 裾花峡」と刻まれた大きな石柱が立っています。これは1937年(昭和12)、鬼無里街道沿いの裾花峡が日本百景に選ばれたことを記念する石柱で、今日では事実上ここが鬼無里街道の東の起点になっています。

国宝の善光寺本殿
参道を本堂に向かう尼僧
鬼無里街道の東の起点となる「裾花峡入り口」の石柱

田植えシーズンには越中からの女性達が

鬼無里街道は現在国道406号線になっていますが、古くは長野市中心部から北西約18㎞に位置する戸隠山(1904m)とその北に連なる峰々を源頭とし、旧鬼無里村を東流して長野市内で犀川に合流する裾花川沿いに通じる道で、西の外れでは市の西境をなす山並みを越えて白馬村にいたり、松本と糸魚川を結ぶ千国(ちくに)街道と合流して終わります。昔は道険しく通行には大変な困難をともないましたが、それでも生活物資の運搬のため、善光寺詣や戸隠詣のための人々の往来があり、善光寺平の田植えシーズンには越後や越中方面から手伝いの女性たちが、菅笠をかぶり茣蓙や風呂敷を背に列をなして通り過ぎたといいます。

善光寺から鬼無里街道に入ると静かな門前町の風情が

茂菅の分去れ

善光寺の賑わいを後に西にたどると、しばらくで町並みが途切れ左下に裾花川を見下ろす山間の道に入ります。春先のこの流域では、右に見える南に面する山の斜面はすっかり雪が消え緑も芽吹いてのどかな様相を呈するのに対し、左手の北斜面はまだべったり雪に覆われた冬景色。流れをはさんで春と冬が同居する極端な光景がこの先もまだまだ続きます。両岸に山裾が迫る川沿いの道をさらに進むと茂菅(もすげ)の分去(わかさ)れで、北に向かう道は旧戸隠道、そこには「右、戸隠、左、鬼無里」と刻まれた古びた石の道標が立てられています。

裾花川沿いの山道を進む

ひっそりと葛山落合神社が鎮座

その分岐から2㎞ほど行った湯の瀬はかつて善光寺温泉のあったところで、江戸時代には善光寺詣や戸隠詣の人々がこの湯で疲れを癒し、近年まで1軒の宿があって裾花峡探勝の基地にもなっていましたが今は廃業しています。ここから左岸の山道を3㎞ほど登ると、木立ちの中にひっそりと葛山(かつらやま)落合神社が鎮座します。いかにも鄙びた山里の守り神といった風情で、本殿は墨書から1465年(寛正6)造立とされ、この地方にはめずらしい建築様式から国の重要文化財になっています。湯の瀬の上流2.5㎞ほどのところには1969年(昭和44)完成の裾花ダム、完成以前は裾花峡観光の中心スポットで、懸崖が両岸に迫りいくつもの変化に富んだ滝を落としていましたが、ダム建設によりその渓谷美は失われました。

裾花川左岸の山道を進む
信濃路らしい山間の村を望む
葛山落合神社

戦争で挫折した長野・白馬間鉄道

昭和の前期、わずかな期間でしたがここまで鉄道が通じていました。善光寺白馬電鉄、通称善白鉄道で、当初は現在の長野市中心部と白馬村を結び、さらに大糸線を経由して北陸や安曇野(あづみの)方面までつなげる計画でした。1936年(昭和11)最初に南長野~善光寺温泉間6.4㎞が開通し、その6年後には1㎞西の裾花口まで延伸され、乗車定員100人のガソリンカーが走りました。しかし、1944年に太平洋戦争により営業停止を余儀なくされ、レールなどの鉄材は軍事用途に供出されました。今でもところどころに線路跡や橋脚など当時の痕跡の一部は残っているようですが、車中からではそれらを確認するのは困難でしょう。

美しい渓谷にかかる鉄橋を渡る

鬼女ではなく里人に慕われた高貴な女性

裾花ダムを過ぎ、裾花トンネルを抜けると、その先はいよいよ鬼女伝説の里、旧戸隠村。伝説は10世紀、鬼女とは絶世の美女と唱われた紅葉(もみじ)のことで、京で道ならぬ恋に陥ったためこの地に流されてきました。摩利支天の妖術を心得ていた紅葉は多数の盗賊を従えて荒倉山の岩屋に籠り、北信濃一帯の村々を荒らし回って里人を苦しめました。そこで平維茂(たいらのこれもち)が派遣され、維茂は失敗を重ねながらも最後には紅葉を討って里に平和をもたらしたとか。

志垣の里へ

裾花川を離れて戸隠方面に向かう道を少し北上し、楠川を右岸に渡ると志垣の里。集落の中ほどに、969年(安和2)創建の柵(しがらみ)神社があります。ここは紅葉を探しあぐねていた維茂が八幡大菩薩に祈って放った2本の矢のひとつが落ちたところとされ、矢先八幡宮ともいいます。急で傾斜の強い石段をかなり登った木立ちの中に、古びてこぢんまりとした社殿がたたずみます。すぐ近くには紅葉の首を埋めたところとされる「鬼の塚」があります。紅葉の首を取ったものの、重くて京まで持ち帰ることができないため、やむなくここに埋めて五輪塔を立てたといわれています。

急で傾斜の強い石段を登ると
その先に、柵神社が佇む
紅葉の首を埋めたところとされる路傍の小平地

飯綱忍法発祥の地、飯縄山

ここから北西に約1㎞、山道を登った先にある大昌寺(だいしょうじ)には紅葉と維茂、双方の位牌が祭られています。境内からは北東の空に、中世の修験道場で、飯綱忍法の発祥地とされる飯綱山(1713m)のゆったりとした山容を間近にできます。飯綱忍法とは、管狐(くだぎつね)とかいう霊能をもち人になつくネズミほどの小動物を竹筒に入れて持ち歩き、その霊能で敵を幻惑させて討ち取るという狐使いの妖術とか。山中には修行の場となった岩場や懸崖が点在し、山麓では戦国期に活躍した妖術使いに関する多くのエピソードが語り伝えられています。

大昌寺本堂
境内にある鐘楼

伝説の舞台となった自然の岩や湧水

紅葉が根城にした荒倉山とは志垣の里の西方、南北に連なって旧戸隠村と旧鬼無里村との境をなす砂鉢山(1432m)や新倉山(1252m)などの総称で、登山に際しては鎖や鉄の梯子にすがって絶壁を登り降りするなど厳しい行動を余儀なくされます。東側の山腹から山麓にかけては、一味の隠れ家だったとされる紅葉の岩屋をはじめ、紅葉が美貌を保つために毎朝洗顔に使った化粧水、宴会を開き舞や踊りの場になった舞台岩、山裾の平坦地は維茂が紅葉に毒入りの酒を飲まされそうになったところなど、伝説にちなむ場所があまた点在します。それにしても奇岩や怪石、湧水、山中の小平地にいたるまで自然の造形をよくとらえ、うまく伝説と結びつけたものです。

志垣の里を過ぎて鬼無里村を目指す

ところで紅葉について、この地では鬼女などではなく、京の文化を伝え医療の心得のある高貴な女性だったとする説もあります。その首を京に送らずこの地に葬り五輪塔を立てたのも紅葉を慕う里人が懇願したためといわれ、ここを「京の峰」、付近の道を「五輪坂」と名づけて供養を欠かさず、現在でも春秋2回の供養祭を行ってその霊を慰めています。

瀬戸トンネルを抜けて鬼無里村に

裾花川沿いに戻り、さらに西進して瀬戸トンネルを抜けると旧鬼無里村に入ります。鬼無里の名は、維茂が紅葉を討って里から鬼がいなくなって以来そう呼ばれるようになったとか。集落の中心には鬼無里神社が鎮座し、8世紀の坂上田村麻呂など武将が戦勝祈願のため訪れていました。神社の東を北上する県道36号線はかつての越後往来で、戸隠中社を経て北国街道に通じ、戸隠詣の人々や修験者が行き来し、鬼無里と越後の物産の搬出入路でした。その途上では北に戸隠連峰、西には北アルプスの大パノラマが素晴らしい大望峠(たいぼうとうげ、1055m)があり、峠上には展望台が設けられて絶好のビュースポットになっています。

鬼無里神社対岸の山裾に鎮座する白髯神社(しらひげじんじゃ)は、社伝では7世紀後半に天武天皇がこの地に遷都を計画したとき鬼門の守りとしたのが起源とされています。うっそうとした老木の間に続く石段を登りつめた小平地に建つ社殿は、長年の風雪にさらされてまさに古色蒼然の趣ながら、安土桃山期の様式による貴重な建築で国の重要文化財に指定されています。

裾花川右岸を北上、柄山峠を超えて白馬村に

戸隠連峰の北西面に源を発した裾花川は、新潟県との境にある堂津岳(1927m)から南西に派生して旧鬼無里村と白馬村との境界をなす山並みに沿って流れ、西京(にしきょう)で90度方向を変えて東に向かいます。この西京は旧鬼無里村の西の中心で春日神社があり、対岸の東京(ひがしきょう)には二条、三条などの小字名がつけられ、加茂神社まで祭られています。これらの名称は紅葉が京を偲んでつけたといわれています。

山間のワインディングロードを青鬼集落へ向かう

ここから裾花川右岸を源流に向かって北上すると、すぐに落合集落への道が左に分かれます。そのまま沢をつめ険しい山路をたどって柄山峠(からやまとうげ、1250m)を越えると白馬村の領域で、青鬼(あおに)集落を過ぎて姫川沿いを北上して小谷村の千国宿にいたりました。この道は三つあった峠越えルートの中でももっとも古くから利用され、安曇野や越後方面からは米に酒や塩、その他の生活物資、鬼無里からは麻や畳糸、和紙、木炭が馬の背で運ばれました。

青鬼集落と石垣で仕切られた美しい棚田

コース途上の青鬼は標高760mの山腹に昔ながらの山村風景が見られる集落で、重要伝統的建造物群保存地区になっています。江戸後期から明治にかけて建てられた14棟の大型家屋が地図上の等高線に沿ってきれいに棟を揃えて連なるため、統一のとれた落ち着いた印象をもたらします。地名の由来ははっきりしませんが、北東の岩戸山(1356m)に善行を施す青い鬼がいたとか、悪事を働いていた鬼のような大男が心を入れ替えて人助けをするようになったので、人々はこれをお善鬼(ぜんき)様として崇め青鬼神社の祭神にしたことにちなむとか。

重要伝統的建造物群保存地区に指定されている青鬼集落
美しい集落を歩く

集落の東には石垣で仕切られた220枚の棚田が広がり「日本の棚田百選」に認定されています。棚田に水がはられる頃、西の方角に連なる北アルプスは雪解け遅くまだまだ銀世界、山里の風情にひたりながら雄大な自然を堪能できます。現在、ここを訪れるには白馬村側から登ってくる道しかありません。

石垣で仕切られた220枚の棚田。「日本の棚田百選」にも認定されている
村のそこここにある道祖神

息をのむばかりの渓谷美

落合との分岐からさらに源流に向かうと、左岸の土倉集落に1183年(寿永2)木曽義仲が北陸に進攻した帰りに文殊菩薩を祭ったのが始まりとされる文殊堂があります。昔は土倉の文殊様として安曇野方面からも多くの参詣人を集めました。その上流には1980年(昭和55)完成の奥裾花ダムがあり、ダム湖右岸の冷沢(つめたざわ)は木曽氏の落武者集落といわれます。ダム湖北端から源流にかけては清流が奇岩を洗って迸り、両岸から懸崖が迫っていくつもの滝を落とし、とりわけ紅葉期には壮大で華麗、息をのむばかりの渓谷美を披露します。

素晴らしい渓谷美が眼前に
裾花川の支流、天神川に沿ってさらに白馬を目指す

トンネルを抜けると一気に開ける大パノラマ

西京から支流の天神川沿いに西へ約3㎞行くと田之頭(たのかしら)で、ここからも柳沢峠(1181m)を越えて白馬村にいたる道が通じていました。これは柄山峠越えでは馬の通行に危険がともなうため明治以降に開かれた道で、昭和の前半にかけて盛んに利用されていました。もう一つの峠越えは柳沢峠の南南西約3.5㎞の嶺方峠(みねかたとうげ、1100m)越えで、田之頭から天神川を遡り小川村との境付近から登りにかかり、峠を越えて白馬側の峰方集落にいたります。土地によってはこの道を夫婦岩越え、あるいは白沢峠越えといったりします。現在の国道406号線は嶺方峠西方の山腹をトンネルで抜けて峰方にいたり、白馬村中心部まで降って国道148号線に合流します。トンネルを抜けてからが壮観で、白馬岳(2932m)を眼前に北アルプスの大パノラマが一気に広がります。

トンネルを抜けると白馬岳を眼前に、北アルプスの一大パノラマが広がる。この日はあいにくの曇り空

人々の暮らしを支えた道

この鬼無里街道は山深い里に住む人々の暮らしを支えた道であり、善光寺詣や戸隠詣、土倉文殊堂参詣のための信仰の道でした。今では車での移動が常識ですが、それでも主要道を外れて少し山道を入れば、鎮守の森にひっそりと建つ小さな社や村外れにさりげなくたたずむ石地蔵、雪の消えた路傍にいち早く姿を現わす野の花に昔ながらの山里の息吹を感じとることができるでしょう。なお、この道は豪雪地帯を通るため、冬期には積雪や路面凍結、融雪期には雪解けにともなう地盤崩壊などで通行を制限されることもあります。