大山隠岐国立公園は、鳥取、岡山、島根の3 県にまたがり、風光明媚な山と海、太古にに誘う神話など、自然と人文双方の観光要素を備えた国立公園です。
今回は、その一角を占める島根県の隠岐諸島を訪ね、牧畜業を営む前井出隼也さんのお話しをお伺いしました。

島流しにされた人々にひもじい思いをさせない土地

律令制において遠流の地と定められた隠岐諸島には、平安時代から江戸時代のはじめにかけて、身分の高い政治犯などが流されてきました。そのなかには武家政権との権力闘争に敗れた後鳥羽上皇や後醍醐天皇、百人一首の歌人として知られる公家の小野篁といった著名な人物も含まれていました。

知夫里島の赤ハゲ山周辺に残る名垣(みょうがき=牧畑の石垣)。かつては土地を区切って利用法を回転させることにより痩せた土地で効率よく収穫を得ていたという。

隠岐が流刑地に選ばれたのは、まず都から遠く離れた日本海の孤島という地理的な条件がありました。しかし、理由はそれだけではありません。

隠岐諸島では農業が盛んで、島後では古くから稲作も行われていました。もちろん海産物は豊富で、贄(副食品)を朝廷に提供する「御食国」として知られ、不老貝と珍重された隠岐アワビなどは皇室儀式にも欠かせないものでした。つまり、天皇や貴族、そして、彼らに付き従う大勢の都人たちにひもじい思いをさせない豊かな土地であることも、遠流の地に選ばれた大きな理由だったのです。

知夫里島の赤壁

火山島ならではの豊かな自然が 人々の暮らしを今も支える。

カルデラ地形特有の急峻な山並みが海岸線から立ち上がる西ノ島や知夫里島では、平坦地が少なく土地が痩せているため、数百年前から牧畑と呼ばれる独特な農法が営まれてきました。これは土地を区切って麦・豆類・雑穀類の作付けと牛馬の飼育を4年サイクルで行う輪栽式農業の一種です。近年、生活の変化などにともなってこの農法は衰退しましたが、誰でも自由に牛馬の放牧ができるという牧畑の伝統を受け継ぐ形で、その跡地では牧畜が盛んに行われています。

左官業の副業として牛を飼っていた父から仕事を受け継いだ前井出隼也さん。数年前から牧畜専業で生計を立てられるようになり、現在は生後200~300日まで育てた子牛を年間30頭ほど出荷しているという。

起伏のある広々とした草原で、海のミネラルをたっぷり含んだ牧草を食べて育った牛たちは、成牛になっても足腰が丈夫で、病気をしないと評判なんですよ」

こんな話を聞かせてくれたのは知夫里島の前井出隼也さんでした

急病で倒れた父に代わって前井出さんが牛飼いの仕事を継いだのは、今から10年ほど前のことでした。ただし、当時の牛の数は十数頭ほどで、建設会社などでアルバイトをしないと生活はできなかったといいます。その後、前井出さんは家族と協力しながら少しずつ牛の数を増やし、今では年間30頭ほどの子牛を出荷できるようになっています。

「ここでは1年を通じて放牧ができ、湧き水も豊富なので、飼料代や水道代はほとんどかからないのですよ。おかげで専業の牛飼いとして十分にやっているようになりました」と前井出さんは言う。

変化に富んだ海食崖がそそり立つ隠岐の島、断崖の上面には緑の草原が広がり、放牧された牛馬がのんびりと草を食む姿が見られます。豊かな自然の恵みは今も隠岐の人々の暮らしをしっかりと支えているのです。

国賀海岸の通天橋。島前の海岸線には、太古の火山活動と荒波の侵食によって生まれた絶景が数多く点在しています。