深く繊細な風味、地域の風土を醸した味わいから、世界中の注目を集める日本の酒。丹精込めて造られる酒には、造り手の熱い思いが込められ、それぞれに心動かされるストーリーがあります。東京の下町にある小さな酒屋の店主が、上質な酒造りに励む蔵を訪ねるシリーズ。第5回目は、鹿児島県奄美の「山田酒造」です。

あるべき姿を求めて。

那覇空港を飛び立ったプロペラ機は、厚い雲の間を時折大きく揺れながら下降を始めた。窓ガラスを斜めに走る雨粒の間から見えるのは、鈍色に波打つ東シナ海。残念ながら憧れの奄美ブルーは期待できそうにない。

奄美群島は九州の南方海上、種子島から与論島までの鹿児島県に属する薩南諸島の一部で、その先には沖縄諸島が連なっている。降り立った奄美空港は奄美群島最大の島、奄美大島の北東端にある。雨の中、車は南国の海岸風景を進むうちいつしか緑濃い山道に入り、龍郷町の集落から少し離れた山間の、黒板の建物の横で停まった。今回の目的地・山田酒造の看板が見えた。

鹿児島と沖縄の中間に位置し、亜熱帯の美しく豊かな自然に恵まれ、大和と琉球文化の出会いの場ともいえる奄美群島。しかしこの地域は、琉球王朝、薩摩藩による支配、戦後の米軍政統治という、3つの大きな支配構造にのみ込まれ、翻弄され続けた場所でもある。

今でこそ唯一無二の特産品「奄美黒糖焼酎」だが、そこにも波乱の歴史があった。

地理的な状況から琉球の影響を多く受けてきたこの地域だが、江戸幕府が開かれたのち薩摩藩が幕府の命を受けて琉球王国に進出し、1609(慶長14)年には薩南諸島の島々を制圧。沖縄本島に上陸して首里城に迫り、時の国王はやむなく和睦を受け入れ開城し、薩摩藩は奄美群島を割譲して直轄地とした。

薩摩藩はサトウキビ栽培を奨励した。サトウキビの絞り汁を煮詰めて固めると黒砂糖=黒糖ができるのだが、この黒糖を専売することで莫大な富を得られたからである。薩摩藩には、アワやソテツなどさまざまな原料を用いた島民の焼酎造りの記録が残されているが、その中にサトウキビを絞った汁を使う記述もあるという。しかし、薩摩藩は黒糖の減収を阻止するため、藩の支配が終わるまでこれを禁止している。

奄美の島々では、焼酎は味噌や醤油同様に家庭で造るものであり、販売のための製造はされていなかった。明治の新政府により酒造の免許制が始まってからも、さまざまな原料を用い自家用焼酎が造られていたようだ。

1879(明治12)年の琉球併合後、鹿児島県の一部となった奄美群島は、第二次世界大戦の敗戦により、今度は沖縄や小笠原諸島などとともに米国政府の統治権の下に置かれた。本土との流通が制限される中、不足する米の代わりに黒糖が焼酎造りに多く使用されるようになり、現在の奄美黒糖焼酎の発展につながっていく。

1953(昭和28)年、奄美群島の復帰協定が日米間で調印され、復帰が実現した。沖縄返還の約20年前のことである。米国は基地が少なく、復帰を求める住民運動が激化していた奄美群島の統治を諦めた、ともいわれる。

奄美群島が日本に復帰するにあたり、酒税法の特例通達で米麹を使用することを条件に、奄美群島だけに黒糖を使った焼酎製造が認められた。現在では奄美群島には27の黒糖焼酎の酒造があり、特産品として多くの人々に愛飲されている。

家族だけで造る。

山田酒造はその中でも特に小さな家族経営の酒造である。本土返還後間もない1957(昭和32)年、創業者・山田嶺義(みねよし)は農協の酒造場で黒糖焼酎造りに携わり製造免許を取得、旧龍郷村大勝に蔵を開いた。1987(昭和62)年法人化し、5年後に2代目山田隆が社長に就任。その息子の山田隆博は東京農業大学醸造学科を卒業し1999 (平成11)年に帰島、2013(平成25)年、父・隆が退任したのを期に代表となり、現在に至っている。

蔵は亜熱帯の樹木に覆われた奄美大島北東部の山間にあり、現在は2代目の会長夫婦と3代目夫婦の家族4名で、名水・長雲山系伏流水を仕込み水と割水に使用しながら実直に焼酎造りに取り組んでいる。近年は一部の銘柄だが原料から100%自社産の黒糖焼酎を造ることを目標とし、麹米とサトウキビの栽培も始めた。

代表銘柄「あまみ長雲」は、初代当主より受け継いだ伝統の逸品。単一原酒を5年以上貯蔵熟成させたビンテージ黒糖焼酎「長期熟成長雲」は、年600本ほどの限定生産だという。

黒糖の香りを封じ込めた人気銘柄「長雲一番橋」の命名には、この家族を象徴する逸話がある。蔵のある龍郷から大島最大の町・名瀬へ向かうには、本茶峠という険しい山道を越えなければならない。その峠道のはじめの川には「一番橋」と呼ばれる小さな橋が架かっていた。その橋のたもとにかつて農協の酒造場があり、そこはまさに初代・嶺義が焼酎造りを学んだ場所であった。

奄美で最も小さな蔵といわれる山田酒造だが、その絆と志はどこよりも強く、大きい。

こだわり店主の、ここが聞きたい! 『酒造りにかける思い』

お話いただいた方:山田酒造 取締役会長  山田 隆  同代表取締役  山田 隆博

聞き手:酒のこばやし 店主 小林 昭二

小林:以前はこの奄美の人たちは雑穀焼酎を造るノウハウを持っていたと聞きました。山田さんのところはどうでしたか?

山田 隆(以下・会長): ウチは造り始めから黒糖焼酎ですね。ただその頃、黒糖焼酎を「泡盛」と呼んでいました。

小林:雑穀のあわ・ひえを使うからあわもりって言っていた、と聞いたことがあるのですが。

山田 隆博(以下・隆博):黒糖が少ない時代はそうだったかもしれませんね。

小林:黒糖の製造免許は本土復帰以降ですよね? それ以前の免許ってどうだったんでしょう。会長のお父さんの代から?

会長:私の父が免許をいただいたのが創業の昭和23年、それ以前は農協の蒸溜所に雇われて、そこで造りを覚えたと聞いています。

奄美黒糖焼酎のあるべき姿。

小林:最近は原料のサトウキビや米を作るようになったと聞きました。農業までだと大変ではないですか?

会長:そうですねー、農業は大変だけど、楽しい部分もあります。

小林:どのくらい作ってるんですか?

隆博:米は2反、20アールくらいです。サトウキビが10アール、1反くらいですか。

小林:もっと増やしていきたい?まだまだ拡張していこうと?

会長:いやー、体力的になかなか厳しくて。自分の集落には土地がなくて、山ひとつ越えたところの隣村に耕作放棄地があることはあるんですよ。まあ増やそうと思えばできないことはないんですけど……。

隆博:農業法人でも作らないと。自分たち家族だけでは難しいですね。

小林:奄美の黒糖焼酎に沖縄の黒糖が使われているようですね。奄美の黒糖を使うとコストがかかり、高くなってしまう、とか。

会長:「甘味資源作物生産性向上事業」ですか?「離島振興法」? そういった国の支援事業や法律があるのですが、奄美は分蜜糖で作るものに補助金が出ない。沖縄の離島は補助金が出るので、安い単価で黒糖が作れるっていうのがあります。

小林:政策の問題ですね。昭和28年と47年復帰の差で、そうなったんでしょうか?

会長:あんまり法律のことはわからんけど、そうかもしれませんね。でも、奄美で黒糖を作っていたから黒糖焼酎が認められた、そういうはずなんです。

隆博:今はもう7割から8割が外国産になっています。

会長:値段が安い方にシフトしていっている、それはもうおかしい。

隆博:奄美群島でしか造れない黒糖焼酎なのに、原料の黒糖は外国産が多く使われている。今は組合でも、GI*を取るとか議論が始まりつつあります。沖縄産、少なくとも国内産の黒糖ならまだいい。でも、自家栽培含め、奄美黒糖で造ることが奄美でしか造れない黒糖焼酎のあるべき姿だと考えています。「奄美でしか造れない」っていうところを重く感じたい。

*GI(Geographical Indications)=登録された産品の地理的表示と併せて付すもので、産品の確立した特性と地域との結び付きが見られる真正な地理的表示産品であることを証するもの。知的財産権の一つとして保護される。

小林:沖縄の泡盛をタイ米で造ることは、もう500年の歴史もありますから、あれを変にいじるのはおかしいと思う。でも、奄美の黒糖の場合はちょっと違うよなって思う。造っている人たちに納得感がないでしょう?真面目に造れば造るほど、疑問が増していくんじゃないかな。

隆博:そうですね。

小林:安いものを供給する大手だったら、それはそれでいいと思うけど、ちっちゃな蔵は、そういったところを大事にしないとね。

黒糖の香りをできる限り留めるには?

小林:うちの店で、山田酒造さんの一番人気は「一番橋」なんです。僕はかねがね、蒸留酒というものは香りが命、香りを追求するもんだと思っています。山田さんはやっぱり理にかなったことをやられてるな、と感じています。ご自分たちは「一番橋」に関してはどう思われますか?

隆博:やはり、黒糖焼酎の中でもかなり黒糖の風味が際立っていると思っています。今は「長雲」よりも「一番橋」の方が人気がある。逆転してますね。

小林:黒糖に熱を加えるのが普通のやり方だけど、こちらでは熱をあまり加えない方法なので香りが高い?・・・これ、企業秘密っていうことでしたよね?

会長:いや、今ではもうほとんど広まってしまっています。

小林:あ、じゃあ聞いてしまいますが、どうやっているんですか?

隆博:溶かすところは長雲と一緒の釜です。砕いた黒糖を入れた釜に網を広げて、巾着みたいに引っ張り上げて、これを釣り上げて水の中に浮かせておく。要するにそのままにしていると底に張り付いてしまうので、溶かしやすいように工夫したんです。

会長:熱を加えるか、加えないかの違いです。熱を加えたら香りもいっぱい飛んでいくので。

小林:そういったことを会長がずっと考えてきた?

会長:私、以前から黒糖を溶かす時、この甘い香りがすごい勢いで飛んでいってしまう、と思っていたんですよね。この香りをなんとかそのまま留めておきたい、と。その頃、倅が大学を卒業して戻ってきたので「この香りをなんとかできないかと思っている」と話をしたら「じゃあやってみよう」っていうことで、二人で始めました。

小林:二人で開発したんだね。

隆博:まあ、開発というほどのこともないんですけど。

小林:でも何かしようっていっても、話だけで終わることはよくあるから。形にするっていうのが大事なんだよね。

会長:いや、自分一人ではなかなか踏み切れなかったということもありますしね。

会長と社長の奥さまがふたりで作ってくださった奄美の郷土のお菓子。左・月桃の葉で包まれた「かしゃ餅」、右・蒸しパン「ふくらかん」。どちらも黒糖が使われる。黒糖焼酎の原料となる黒糖(右)は、そのままお茶請けや酒のつまみに。
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これから。

小林:最近は低アルコール志向で、炭酸割とかにして飲まれる方も増えてる。それはそれでいいんですけど、でも僕らみたいなのは、やはり原酒とか、本物というか、そういうものが大切だと思っている。山田さんはその辺り、どう考えてますか?

隆博:まだ具体的にはっきりしたものはないんですが、これからやろうと思っているのは、一番橋の原酒を出してみようか、と。あと、樽熟成をやってみようかな、とは考えています。

小林:一番橋のハナタレとか、楽しみだね。あとは見せ方ですかね。特別奇を衒ったことじゃなくていいけど、うまいものはうまい、だけじゃ伝わらない。まずいのは話にならないけど、うまいからって売れるとは限らない。高濃度っていうのはそれほどたくさんのファンはいないわけで。やっぱり香りを求めた焼酎だと、特別感があって女性が手土産に持っていきたい、と思うような、ギフトに向くオシャレ感がある商品は需要がある。

隆博:なるほど、そうですね。

小林:復帰の際、麹を使わない黒糖酒ではラム酒になってしまう、それで当時の大蔵省はリキュール扱いになると焼酎との税率が違ってしまうので、奄美でだけ、必ず米麹を使いなさい、というシバリを作って焼酎の分類とした、という歴史的な経緯がありますね。そういう話をお店に来たお客さんに話すと、とても興味深く聞いてくれます。僕も曖昧なところがあったんで、こうしてせっかく「生き証人」にお会いできるので楽しみにしていました。ありがとうございました。

右から、酒のこばやし・小林 昭二、山田酒造代表取締役・山田 隆博、同会長・山田 隆、同会長夫人・山田 恵美子(敬称略)

 

山田酒造

鹿児島県大島郡龍郷町大勝1,373番地ハ号 TEL:0997-62-2109