「日本三大車窓」に数えられる眺望を持つJR篠ノ井線の姨捨駅は、長野駅から約30分ほどのところにあり、スイッチバック式の駅として鉄道愛好者にも人気の場所だ。棚田とその先の千曲川が流れる善光寺平を一望できる絶景スポットでもある。電車でホームに降り立った観光客は、眼下に広がる棚田に圧倒されることになる。
写真・文 : 青柳健二 Kenji Aoyagi
「田毎の月」は、俳人や絵師たちが姨捨の棚田を見た時の心の現実風景なのだろう。
姨捨(おばすて)の棚田は、標高460mから550mの範囲の斜面に広がっていて、耕作面積は約40ha、1500枚を誇る。この棚田の開発が本格的に始まったのは、溜池が整備された16世紀後半ころからといわれる。1999年、国の名勝・日本の棚田百選に指定され、2010年には国の重要文化的景観にも指定されている。日本の棚田百選の中でも、規模が大きなところのひとつである。
また、車で来た観光客は、棚田の下に設けられた駐車場から農道を上って見学することになる。いずれにしても、すべてを周るにはかなりの時間がかかる。面積が広いということに加えて、斜面に拓かれた棚田なので、農道は急勾配なのだ。天気の良い日などは、汗をかきながらの見学になるが、その体験でこの棚田の規模を実感できるということにもなる。
広い棚田の中でも、特に昔ながらの曲線が残されている田んぼで仕事をしていた農家の奥さんに「ここは棚田らしい棚田ですね」と私が声をかけると、「みなさんからそう言われているんです」という。仕事をする上では狭くて曲がっていて大変だろうが、「いい棚田ですね」とみんなに褒められてまんざらでもなさそうだ。機械を入れたり出したりするのも面倒なので、全部手作業でやっているとのこと。これでも、昔に比べれば畦のクロヌリはやらなくてよくなって、仕事はだいぶ楽になったという。
ここはまた歴史を感じさせる棚田でもあり、「信濃三十三番観音霊場」の十四番目でもある長楽寺には観月堂があり、『古今和歌集』の「姨捨山の月」として詠まれた月の名所でもある。1688年に姨捨を訪れた松尾芭蕉も,「おもかげや 姥ひとりなく 月の友」という句を詠んでいる。
小林一茶は1799年を初回に計4回ほど姨捨を訪ねていて、「姨捨の くらきなかより 清水かな」などの句を残している。
「田毎の月」とは長楽寺から5分ほど下ったところに位置する「四十八枚田」に映る月をいった。江戸時代からその形がまったく変わっていないところだ。確かに田んぼの形は、地形をそのまま生かして畦を切った、三日月形・半月形の田んぼが重なっていて、今重視される「作業のしやすさ」とはまったく無縁な形をしている。
「田毎の月」は、すべての田んぼの水に月が映る光景で、俳人たちが句に詠んだほか、歌川広重は『六十余州名所図会』の「信濃 更科田毎月鐘台山」や『本朝名所』の「信州更科田毎之月」などに、段々になった複数の田んぼに月を描いている。
しかしどんなに田んぼの数が多くても、実際には月はひとつしか映らない。だから厳密には(光学的には)「田毎の月の写真を撮る」というのは不可能だ(多重露光は別として)。ただ、その瞬間は確かに月はひとつだが、あたりを歩いてみると、月は次々に田んぼを移動していく。結果的にすべての田んぼに月が映ることになる。また、時間が経てば月が次々に田んぼを移動していく。このように空間だけではなく、時間も考慮すると、この「田毎の月」が実際見えるようになる。
「見える」というより、田毎の月は、「体験する」と言ったほうがいいかもしれない。実際に私は、夜中、「四十八枚田」以外にも棚田を歩き回り、「田毎の月」を「体験した」ことがある。
ひとり、足元の水に映る煌々と輝く月を眺めていると、美しさを通り越して、怖さも感じてくる。その月が私の後を黙って追ってくるのだ。「田毎の月」は、俳人や絵師たちが姨捨の棚田を見た時の心の現実風景なのだろう。
姨捨の棚田
JR東日本篠ノ井線姨捨駅 長野県千曲市八幡姨捨4947