平安貴族の寝殿造、武士の台頭による書院造、庶民階級の農家、町家などの民家。
木造から鉄筋コンクリート造・鉄骨造への変化、生活スタイルの洋風化など、
縄文時代からはじまる日本の住宅の歴史を、時代背景とともに見てみましょう

旧石器時代 

洞窟住居から竪穴住居へ。

縦穴式住居地面を円形や方形に掘り込み、その中に複数の柱を立て梁や垂木を繋ぎ合わせて骨組みを作り、その上から土やわら等で屋根を葺いた建物。内部に炉やかまどが設けられることが多い。

縄文時代

人々は一か所に集住して円状に竪穴住居を連ね、その内側を作業空間とした。集落の始まり。関東近辺では地面に石を敷き詰めた敷石住居も見られた。

弥生時代

静岡県登呂遺跡、この時代後期の代表的な復元遺構で当時の住生活を伝えている。朝鮮半島から製鉄技術が入り、斧や鑿などの鉄工具が住居建設に使われる。

古墳時代

有力者は高床式住居に住み、住まいは単なる生活の場にとどまらず、権力や富の象徴となる。

後期:竪穴を掘らず、平面が矩形で掘立て柱を立てた平地式住居がつくられる。

平地式住居地面に彫り込みを持たず、地上に直接建築した住居。穴を掘って柱を立てたので堀立柱建物ともいい、床は作らず土間とするのが平地式建物で、床を高い位置に作る高床建物は主に倉庫に使われた

飛鳥時代

後期:畿内では竪穴住居はほとんど見られなくなり、平地式住居に替わる。

奈良時代

前期:山上憶良『貧窮問答歌』で粗末な住環境と苦しい貧困生活を詠う。

739(天平1):橘夫人邸を法隆寺に移築。のちの伝法堂で、現存最古の住宅建築遺構。

745(天平17)頃:平城京朝集殿竣工。のちの唐招提寺講堂で、貴重な天平期宮殿住宅建築遺構。

平安時代

商人や職人が都に定住し、日本の都市住宅の始まりとされる町家が形成される。町家とは間口狭く奥行きがあり表口から裏口に通じる通り庭と呼ばれる土間をもつ住居型式。この頃が起源。

1052(永承7):平等院鳳凰堂、藤原頼通の別荘を寺院として創建。寝殿造を代表する建築の一つ。

鎌倉時代

武家社会になり、有力武士は防御のために屋敷周囲に堀や土塁を巡らせ、内外に家来を住まわせた。

1299(正安1):一遍上人絵伝』。僧一遍の諸国遊行録で、各地の武士の館や農家建築が描かれている。

室町時代

初期の書院造は主殿造ともいわれ、寝殿造を原型としながらも、空間を細分化して身分別、目的別の利用が行われた。その後、接客空間の独立、主座敷を上段に置き、縁側に張り出して机を造りつけた付書院をもつなどさらに様式化が進み、江戸初期に完成期を迎えた。

安土桃山時代

1578(天正6):村上家住宅竣工(富山県南砺市)。越中五箇山合掌造集落最古の建物の一つ。

1587(天正15):豊臣秀吉、京都に壮大華麗な城郭風邸宅、聚楽第を竣工するが3年後に破却、西本願寺飛雲閣浴室、大徳寺唐門はその遺構と伝えられる。

江戸時代

1602(慶長7):二条城竣工、二の丸御殿は書院造完成期の代表的な建築。

1635(寛永12):参勤交代が制度化され、江戸城下の広くを大小の武家屋敷が占める。

1643(寛永20):幕府は農民に対し、身分に応じた家をつくるよう命じ、生活の細部にわたるまで規制した。各藩でも住宅の大きさや内部の造作まで制約を加えるなど、農民は厳しい管理下におかれた。

1720(享保5):江戸ではそれまで町人には禁じられていた土蔵造や瓦葺きが許され、のちには類焼した家を瓦葺きに改修する場合、資金援助を受けられた。

1790(寛政2)頃:当時江戸の人口は町人60万、武家65万を数えるが、居住地の広さは1:5、町人は1平方キロメートル当たり6・9万人という過密居住を余儀なくされた。

1792(寛政4):大沢家住宅竣工(埼玉県川越市)。蔵造の町家建築で、明治期の大火では唯一焼け残り、これにならって蔵の町並みが形成された。

1830(天保1)頃:中山道奈良井宿(長野県塩尻市)、「奈良井千軒」の家並みの多くはこの時代の建築。

中山道奈良井宿中山道六十九次の34番目の宿場。現在は長野県塩尻市に位置し、重要伝統的建造物群保存地区として当時の町並みが保存されている。

1830(天保13)頃:江戸では幕命により、表通りには重厚な土蔵造の町並みが形成されたが、裏通りでは単なる板葺きで燃えやすい「焼屋造」の長屋が軒を連ねた。

1853(嘉永6):喜田川守貞『守貞漫稿』で、京坂の町家を町人の階層分化に応じて大小3タイプ分類した。

京都の町家職住一体型の住居形式で、間口が狭く奥行きが深い都市住宅。玄関から裏庭までの土間の部分を通り庭といい、裏口まで通り抜けられるようになっていて、採光と風の通り道としての機能を兼ね備えている。

1863(文久3):世界遺産富岡製糸場の構成資産としてともに登録された田島弥平旧宅竣工(群馬県伊勢崎市)。近代養蚕農家の原型とされる建築。

田島弥平旧宅。近代養蚕農家の原型

明治時代

1871(明治4):東大工学部の前身、工学寮に造家学科新設、外国人建築家を招聘して技術者の養成が始まった。

1877(明治10):新島襄邸宅竣工(京都)。在来工法に椅子座、腰掛式便器、ベランダなど欧米様式を取り入れる。

1879(明治12):日下部家住宅再建(岐阜県高山市)。瓦葺き段違い2階建ての高山を代表する商家建築。

1886(明治19):旧棚倉藩阿部家、東京で住宅地経営を手がけ、地目変換、井戸開削、下水道敷設などを行う。

1887(明治20):東京府は日本橋など家屋密集地での板葺きや草葺きを瓦葺きに改修させ、約1700棟の改造と3万棟あまりの屋根葺替えを行う。

1898(明治31):洋館への憧れが高まる中、北田九一は建築学会雑誌で「和洋折衷住宅」を提唱。和洋とも間取りを簡略化することで建築面積とコストを抑えれば、富裕層でなくても実現可能と説いた。

1902(明治35):造家学会誌『建築雑誌』で、外国の建築技術を学んだ工部大学校卒業生たちが「家屋改良論」を唱え、形だけの洋風化を批判。また、簡単に間仕切りを取外しできたり、一つあるいはいくつかの部屋を通り抜けて他室へ行くというような独立性を欠く屋内構造の欠陥を指摘し、初めてプライバシー問題を取り上げた。造家学会は今日の建築学会。

1903(明治36):夏目漱石、東京駒込千駄木町の借家に入居。当時の典型的な中流住宅で広さは47坪ほど、間取りは田の字プランを基本とした武家屋敷に準ずるが、玄関脇に洋室がありそこを書斎として『吾輩は猫である』を執筆した。一応、和洋折衷とはいわれるが、洋風部分は極めてわずかにとどまる。

1909(明治42):赤坂離宮竣工。ヴェルサイユ宮殿をまねたロココ様式の建築で設計は片山東熊、10年を要して完成した。現在の迎賓館。

赤坂離宮。現在の迎賓館

1910(明治43):東京上野に木造5階建ての賃貸アパートできる。中廊下をはさんで極小住戸が配置され、63所帯が居住した。当時としてはモダンで、入居者には新し物好きの中間層や外人もいた。

1911(明治44) :東京浅草に救貧対策として日本で最初の公営住宅7棟を建設。

大正時代

1912(大正元年)頃 明治時代末より大正にかけて、中廊下式住居普及。

中廊下型住居中廊下をはさんで南側に客室や居室、北側に台所、浴室、納戸などを配置するタイプで、その後、中流家庭の住宅によく見られるようになった。

1916(大正5):アメリカで建築を学んだ橋口信助、洋風住宅普及のために「住宅改良会」を発足させ、雑誌『住宅』を創刊。雑誌を媒体に懸賞付きの設計競技を催したり、次々に斬新な特集記事を組んで当時の建築界に新風を吹き込んだ。

1918(大正7)頃:大都市への人口流入による住宅難解消のため、東京や大阪で市営住宅の建設が進む。

1919(大正8):旧文部省主催の「生活改善展覧会」が開かれ、『住宅』誌のコンペ入選案やイギリスの田園都市化構想の紹介、今後の国内住宅に関するさまざまな問題提起がなされた。

1920(大正9):社会民衆の教育、国民生活の改善向上を目的に財団法人「生活改善同盟会」設立、その分科会「住宅改善調査委員会」では翌年、椅子式の導入、間取りはこれまでの接客本位から家族本位に、設備面では虚飾を改め衛生や災害防止に努めるなどとした「住宅の改善方針」を発表した。

1921(大正10):借地・借家人保護のために「借地法・借家法」公布。

1922(大正11)頃:イギリスのE・ハワードが提唱した田園都市構想にならった街づくりが各地で進められる。東京田園調布はその代表的事例で、駅を中心に放射状に街路が通じ整然とした家並みが形成された。

1924(大正13):財団法人同潤会設立。関東大震災後の住宅供給を目的とし、東京や横浜に鉄筋コンクリート造のアパートを建設。当時としては最新の設備と耐震耐火構造だが、生活様式は畳敷きの床座だった。

1925(大正14):お茶の水文化アパート竣工。法律学者森本厚吉の「中間層の能率的な生活のためにはアパートメントハウスこそ必要」という主張により、帰化アメリカ人W・ヴォーリズが設計、鉄筋コンクリート造4階建て地下1階、戸数47、部屋はすべて洋風椅子座式、ホテル並みに食堂、宴会場、カフェがあり、入居者の洗濯物はメイドが手配した。その一方で、昭和初期にかけて各地に庶民向けの木造アパートが急増。

昭和時代

1928(昭和3):同潤会、横浜にサラリーマン向け分譲住宅30戸、翌年東京にも30戸建設、月々の返済は一般賃貸の家賃並みで、いずれは自分のものになるので人気を博し、申込みは数十倍にもなった。

1929(昭和4):日本建築協会、大阪で「貸長屋住宅コンペ」開催。1等入選案は居室の通抜けをなくし、採光、通風にも配慮しているが実施例はほとんどなかった。

1930(昭和5)頃:堀口捨巳、谷口吉郎など気鋭の若手建築家により、国際様式の住宅が次々につくられた。作品は無駄な装飾の否定、直線的で幾何学的な構成が特徴。

1931(昭和6):当時、東京では7割以上が借家住まいで、1戸建ての借家は約34%、2戸建て約31%などとなり、大阪では特に借家の多い10地域で1戸建てわずか4%強、95%以上が長屋住まいとなっている。

1933(昭和8):貸室10室以上の木造アパートでは3階以上禁止、1室7平方メートル以上とし、防火構造、避難通路や階段などにも規定が設けられた。

1936(昭和11):京都では長らく通り庭型の町家が主流で、この年の調査では1戸建て55%、そのうちの61%が伝統的な通り庭型町家と報告されている。

1941(昭和16):住宅営団設立。政府の全額出資による特殊法人で、同潤会の事業を引き継ぎ住宅建設、売買や賃貸の仲介などの業務にあたり、また、特権を与えられて土地の収容や住宅債券の発行なども行った。

1942(昭和17):西山夘三の「食寝分離論」。戦前の庶民住宅では狭小なため同じ部屋での食事と就寝を余儀なくされたが、その衛生的、心理的問題を指摘、住空間における最低限の質的向上を唱えた。

1945(昭和20):旧内務省発表では戦争により失われた建物は約300万棟、そのほとんどは住宅で、戦後の住宅不足は戦災消失、疎開滅失、引揚者用不足分を合わせて約420万棟にのぼると推定された。

1946(昭和21):1月『新建築』復刊、4月『建築文化』創刊、大阪では戦前の『住宅』を引き継いで『新住宅』が創刊され、建築ジャーナリズムの世界にも復興の兆しが生じる。

1950(昭和25):住宅金融公庫事業開始。住宅難の解消には資金難の解決が必要と認識され、融資条件としては1戸当たり30〜48平方メートルまで、金額は建築面積×標準建築費× 75%とされた。

1951(昭和26):公営住宅法公布。国の補助により地方公共団体が住宅を建設し、低所得の住宅困窮者に賃貸することにより国民生活の安定を図るとした。

1955(昭和30)頃:東京山手に最初のマンション完成、当時は分譲より賃貸が多かった。建築雑誌の紹介などでモダンリビングへの関心高まる。その特徴は家族で共有する空間を中心に据え、寝室などのプライベート空間を周囲に配置して両者の独立と対比を明確にした間取りにある。

1956(昭和31):農家の生活改善が進められる中、この年の調査では北海道を除く全国農家の38%に当たる220万戸が台所改善を行い、23%が改善の予定という結果が報告された。この年の経済白書では「もはや戦後ではない」とされたが、衣食の面では回復傾向にあるものの、住宅は依然として270万戸の不足を来していた。

1958(昭和33):大阪府豊中市に1155ヘクタール、人口15万を見込んだ千里ニュータウン建設始まる。団地生活者は「団地族」と呼ばれ、人々の団地への憧れが高まる。この頃、賃貸の公団住宅では競争率5〜6倍だったが、61年には31倍にも達し入居は狭き門となった。

千里ニュータウン

1960(昭和35):西沢文隆「正面のない家」。好ましくない周辺環境のため外側全面を壁で閉ざして遮断し、内側に中庭をつくってそこに安らぎを求めたコートハウス。

1962(昭和37)頃:マンションブーム始まる。「建物の区分所有に関する法律」が制定され、共同建築の1区画を持ち家とすることが認められた。

1966(昭和41):東孝光が自邸で試みた狭小住宅「塔の家」竣工。6坪の敷地に鉄筋コンクリート造地上5階地下1階の塔状建築。各階ワンルーム構成で、それぞれに住まいとしての機能を分担させている。

1967(昭和42):戸建てプレハブ住宅、市場に出る。全国各地に展示場ができ大々的に宣伝されたが、欠陥も目立った。

1968(昭和43) :東京渋谷に最初のコーポ住宅竣工。コーポ住宅は家をもちたい人が協同でつくる集合住宅。

1973(昭和48):海外では「日本人の住まいウサギ小屋」と評され、経済大国になりながらも過密居住で粗末な住環境を顧みない現実から、生活観の欠如を指摘される。

1975(昭和50):大阪泉北ニュータウンに公共のタウンハウス竣工。タウンハウスは敷地内に共有の空間を有する接地型、連棟式の低層集合住宅。大阪で「都市住宅を自分たちでつくる会」発足。住み手グループと建築家グループの協同で住宅建設を目指す。住み手主体の家づくりの先行例。

1976(昭和51):茨城県営六番池団地竣工。起伏のある敷地に建つ3階建ての低層住宅で、屋根を日本瓦で葺くなど周辺との調和に配慮した環境共生住宅の一つ。以後、各地の公営住宅建設でも地域性を重視したデザインが採用されるようになった。

1980(昭和55):女性の社会進出が活発になり、大都市で独身者用のワンルームマンションの開発が進む。

1982(昭和57):枠組壁工法住宅、公庫融資の対象となって市場に出る。2×4インチなどの規格材を釘打ちして立ち上げる簡易な工法で、アメリカで始まりツーバイフォーともいわれる。

1986(昭和61):日本住宅会議、初めて国民目線により人々の置かれている住環境や住宅事情を調査した「住宅白書」をまとめる。その内容は住宅不足、欠陥住宅、欠陥環境、住まいの貧困がもたらす居住障害、住生活の崩壊による居住不安などの問題を指摘し、国民に訴えた。

1988(昭和63) :この年前期のマンション価格は平均7000万円を超え、翌年はさらに1億を超え「億ション」などと皮肉られる豪華物件が話題になった。海外のプレハブメーカー進出により、住宅デザインの地域性、独自性が薄れる。

平成時代

1994(平成6):伝統的な古民家や町家を再生したり、その古材を活用するリサイクル活動始まる。

2000(平成12):都市近郊型実験住宅「パーフェクト・リサイクル・ハウス」登場。深夜電力による全電化エネルギーシステムや解体時の分別収集を容易にする部材構成など、エコに徹した未来型住宅の試み。

2006(平成18):京都で維持困難な町家の保全、再生のための基金として「京町家まちづくりファンド」設立される。

2009(平成21):大阪市に高さ209・4m、54階建て(あべのハルカス)、川崎市に203・5m、59階建ての超高層マンション相次いで完成。前者は2020年秋時点で日本一。

現在日本一の高さを誇る大阪のあべのハルカス