目に見えず、形もなく、手に触れることもできない……。
しかし、そんな香りには不思議な力があります。
人の心をなごませ、研ぎ澄まし、ときに奮い立たせる。
この香りを楽しむ行為を一定の作法のもと、芸道として確立したのが香道です。

香りの楽しみを芸道として洗練させたもの。

古くからインドでは、酷暑が引き起こす腐臭を防ぐため、天然香木が使われてきました。インドで生まれた香は、その後、西に向かうと香油や香水になり、東へ向かうと練香や抹香に形を変えていきました。

「世界には香りを楽しむさまざまな文化や習慣が広く根付いています。しかし、それを芸道のレベルにまで高め、洗練させていったのは日本だけなのですよ」という話を聞かせてくれたのは、天正年間創業の香舗、香十の代表をつとめる稲坂良弘さんです。

聞香--意識を駐中して、香りを聞く。感じる。

香道とは、茶道などと同じように、一定の作法で香りを鑑賞する芸道。そこには『聞香』と『組香』という2つ大きな要素があります。

聞香というのは、心を穏やかにして、香木の香りを聞くこと。香りを『嗅ぐ』ではなく、『聞く』と表現するというひとつをとっても、その繊細さや奥深さを垣間見ることができるかも知れません。

「ふだんの生活で臭覚は、視覚や聴覚、触覚や味覚ほど機能していません。それだけに、よほど意識を集中しなければ、似たような香りを聞き分けることはできないのです」と稲坂さんは言います。

香席という落ち着いた空間、そして、無駄がなく、穏やかな作法や立ち居振る舞いは、ある意味、香りに意識を集中させるために生まれてきたものと言えるでしょう。

1香炉を右手で取り、聞筋を自分に向け、左手の平に水平にのせる。 2右手の親指と小指を香炉の縁にのせ、手の中に香りを溜める。 3親指と人差し指の間から、香りを三息で聞く。 4右手を差し出すように、隣に座る次客との香炉を置く。

組香--同香・別香の違いを聞き当てる。

次に組香ですが、これは10人ほどがひとつの場(=香席)に集い、香りを楽しみながら文学的イメージを膨らませていくゲーム性の強いものです。組香のテーマは和歌や古典文学、漢詩や故事来歴に基づいて構成され、その数は数百種類にものぼります。今回取材したのは、組香の中で最も人気が高い題目のひとつ、『源氏香』でした。

まず、緋毛氈の上座に座るのは亭主である『香元』と記録係の『執筆』のふたり。そこから『連衆』と呼ばれる客たちが矩形に連なります。そして、用意されるのは5種類の香木を各5包ずつ(合計25包)。その中から任意の5包を取り出し、香元から順々に香炉が回され、連衆たちはその同香・異香を聞き分けてゆきます。

ちなみに5種類・25包の香木からできる組合せの数は52通り。それぞれが源氏物語全54帖のうち、最初の『桐壷』と最後の『夢浮橋』を除いた52帖に対応していて、5種の香木を聞き終えた連衆は、同香・異香を図式化した源氏香図と題名を紙に記して執筆に提出します。華麗な源氏絵巻に想いを馳せながら、聞き分けの正誤を競うのです。

5つの香を聞き終えると、その同香・異香を聞き分け、答えの巻名を紙に書き記し、記録係の執筆に手渡す。

戦国武将たちも親しんだ香道の世界。

『日本書紀』によると、日本に初めて香木が伝えられたのは推古3年(西暦595年)のこと。渡来僧や留学僧の手により、多くの経典や仏具とともに香木が持ち込まれたことからも分かるとおり、当初、香は仏前を浄める宗教儀式の道具でした。葬儀や法要で誰もが経験したことのある焼香は、1400年前、香が日本に伝わった当時の姿をそのまま伝えるものなのです。

その後、平安時代になると、上流階級の間では衣服や頭髪、室内に香をたきこめる『空薫物』、さらには香の配合により香りの優劣を競う『薫物合』といった趣味や遊びが盛んになってゆきます。

13世紀頃になると、今度は香木そのもの香りを楽しむ遊びが流行るようになり、やがてそれが前ページで紹介した組香を生むことになります。

そして、芸道として香道が確立されるのは15世紀、室町時代後期のこと。このとき、八代将軍・足利義政の命を受けて香道の基礎を築いたのが三條西実隆公と志野宗信のふたりで、それぞれの流派は御家流、志野流として現在まで脈々と受け継がれています。

もともと公家の雅な遊びとして流行した香は、武家政権の成立とともに、武士のたしなみとしても大きな広まりをみせます。意外に思う方が多いかも知れませんが、織田信長をはじめとする戦国武将たちは、茶道だけではなく、香道にもかなり親しんでいました。

香道が武家にも受け入れられた理由を香十代表の稲坂さんは次のように考えています。

「意識を集中しながら、微妙な香りを聞き分けるという行為は、同時に他の感覚も刺激し、人の五感の機能を研ぎ澄ますように高めてくれます。そのことを戦いに命をかける武士たちは本能的に悟っていたのではないでしょうか」

左/下からの熱で香木片を香りだたせる聞香炉(ききごうろ)。灰の下には炭団(たどん=円筒状に練り固めた木炭の粉)が埋められている。灰の表面に刻まれた最も狭い逆V字型の線が聞筋。右上/灰に通した細い針穴から炭団の熱が立ちのぼる。右下/数㎜ほどの香木片は雲母板の上で間接加熱される。

六国五味--香木の種類と香りの違い。

最後に香道に用いられる香木についてですが、これらは今も昔も日本には存在しない貴重な品です。香木の代表格、沈香の例でいうと、幹の中に樹脂を溜め込んだジンチョウゲ科の原木が倒れ、数百年から千年もの間、地中で熟成されたものだけが、ようやく魅惑的な芳香を放つようになるのです。それがたまたま人に発見され、掘り出され、長い旅を経て、シルクロードの東の終点である日本へと持ち込まれてきました。

香木の種類が原産国にちなんで六国と分類されたのも、そんな理由があります。

ちょっと下世話な話になりますが、現在取引されている香木1グラム当たりの価格は、同じ1グラムの金の数倍。沈香のなかでも最上級とされる伽羅にいたっては、金の数十倍もするそうです。

香木は伽羅(きゃら)・羅国(らこく)・真南蛮(まなばん)・真那賀(まなか)・佐曽羅(さそら)・寸聞多羅(すもたら)の六種に分類され、それぞれ名は産地に由来する。香道では工期の特徴を味覚になぞらえ甘(あまい)・酸(すっぱい)・辛(からい)・苦(にがい)・鹹(しおからい)の五味に分類する。

「こうした貴重な香木の香りに、昔の人たちは、千年の歴史、一万里の旅路といった物語的なイメージも膨らませていったに違いありません」と稲坂さんは言います。

ただし、これほど貴重な香木を用いながら、香道の世界では長々と香りを味わいつくしたり、部屋に香りを充満させるようなことはしません。香りを聞くのは三息のみ。わずか10秒ほどの間に香木の発する声に耳を傾け、聞き分けるのです。

海外から持ち込まれた香りの文化を独自の様式で洗練させていった香道。そこには日本人独自の知性、感性、そして、美意識が鮮やかに息づいているようでした。

「香満ちました」という香元の声で一連の香席は終わりを告げる。

稲坂良弘 いなさか・よしひろ

天正年間創業、約430年の歴史をもつ老舗・銀座香十前代表。香りにまつわる公演・講座を数多くこなし、メディアからは「香の伝道師」とも呼ばれる。著書に『香と日本人(角川文庫)』などがある。


香道を始めるには?

銀座4丁目にある香十庵では毎月定例で御家流の香道教室を開催しています。 年齢、性別などに関係なく、誰にでも入会でき、和服でなくてもOK(洋服の時は足首までの白いソックスを着用)。費用は御家流の入会金が3000円、会費が1万6500円~(月1回×3回)となっています。 本格的に香道を習う前に、まずはどんな世界か知りたいという人には体験香会(入会金なし・1回5000円)がおすすめ。こちらは机席での指導もあるので、正座の苦手な人でも気軽に参加できます。このほか、香十庵では母の日やバレンタインデーにちなんだ特別体験会も実施中。家族や夫婦、恋人同士で誘い合わせ、香りに心をゆだねる聞香のすばらしさを和気あいあいと楽しんでみるのもいいでしょう。 「書道のような習い事と違い、香道は予習・復習の必要がないんですよ(笑い)。ですから、純粋に香りの世界を楽しんでいただければ、それだけでもいいのです」と、御家流香道師範の丸山堯雪(ぎょうせつ)さんは言います。

銀座香十「香十庵」
東京都中央区銀座4-9-1KODOビル3F
Tel:03-3574-6135

文: 佐々木 節 Takashi Sasaki

編集事務所スタジオF代表。『絶景ドライブ(学研プラス)』、『大人のバイク旅(八重洲出版)』を始めとする旅ムック・シリーズを手がけてきた。おもな著書に『日本の街道を旅する(学研)』 『2時間でわかる旅のモンゴル学(立風書房)』などがある。

写真: 平島 格 Kaku Hirashima

日本大学芸術学部写真学科卒業後、雑誌制作会社を経てフリーランスのフォトグラファーとなる。二輪専門誌/自動車専門誌などを中心に各種媒体で活動中しており、日本各地を巡りながら絶景、名湯・秘湯、その土地に根ざした食文化を精力的に撮り続けている。