人々を惹きつけ、魅了し、感動を呼ぶ芸能の世界。ここでは、長い歴史を紡いできた日本の伝統芸能がどのように生まれ、影響し合い、完成されたのか、その成り立ちや思いを紐解いてみましょう。
第2回目は「能楽」です。

能楽の舞台。神が宿るという「老松」が描かれている。

「能楽」とはどんなもの?

「能」と「狂言」を併せて「能楽」と呼びます。能楽は、世界的にも珍しい専用舞台を持つ芸能です。 もちろん現代ではホールの舞台などで上演されることもありますが、正式には本舞台(ほんぶたい)、橋掛り(はしがかり)、後座(アト座)、地謡座(じうたいざ)などからなる「能舞台」で上演されます。

また、観客席である見所(けんしょ)との境に幕はありません。能舞台には能楽専用だけあって、様々な工夫も凝らされているのですが、それはまた改めて。

能楽の舞台

❶「本舞台」。演者(えんじゃ)が舞ったり演じたりする三方吹き抜けの舞台で、三間(5.4メートル)四方の小ぶりな正方形です。ゆるやかに客席側へ傾斜しています。右に張り出した場所が「地謡座」で、能楽の声楽を担当する人たち(地謡)が座るところです。

❷「アト座(後座)」。本舞台の後方にあり、能楽の器楽である四拍子(しびょうし=能管、小鼓、大鼓、太鼓)の演奏者たち=囃子方(はやしかた)が座るところです。

❸「鐘板」。奥の壁のことで、ここには神が宿るという老松の絵を描くのが通常です。

❹「シテ柱」。シテの定位置。

❺「目付柱」。面をかけたシテが目印にする柱。

❻「ワキ柱」。ワキがこの柱の向こう隣を定位置とするので、この名があります。

❼「笛柱」。その脇に笛方が座ることからこう呼ばれます。

❽「橋掛り(はしがかり)」。本舞台への登退場に使われるだけでなく、本舞台の「この世」に対して「あの世」、本舞台の「海」に対して「陸」、あるいは時空の隔たりなど、さまざまな演出に用いられ、第二の舞台とともいえる特徴的な部分です。

能楽が描く世界

能楽は、極端なまでにシンプルな舞台で、凝縮された表現によりその先に広がる世界を想像させ、あるいは単純明快な表現ゆえにその奥に込められた世界を予感させる芸能です。

能が描く世界は実生活ではなく古典文学で、現実から非現実へと、がらりと世界が変わる作品も多くあります。一切の無駄を削ぎ落とした表現で、観る側の想像力を最大限に引き出し、ほんの小さなしぐさでいろいろなことを連想させるのです。

一方の狂言は、庶民の現実の世界が中心です。その表現方法は能とは対照的で、時として現実以上にリアルな表現技法で一見滑稽な世界を描きながら、その奥に皮肉や風刺を潜ませてそれを観る側の心に届けます。

上演する人々

能楽を上演するのは「演者」と「囃子方」で、演者には能役者、狂言役者(狂言方)の別があります。

能役者はさらにシテ方とワキ方に専業化されています。シテとは主人公で、面(おもて=能面)をかけて舞を舞うのはシテです。演じる役柄は、作品にもよりますが、幽霊や精霊、神や鬼など、この世のものではない役がほとんどです。

ワキとは主役の相手役のことで、「脇役」という言葉から連想される「準主役」というイメージとは少し異なり、主人公の話の聞き手になったり、時には戦ったりして、主人公に対峙します。演じる役柄は、シテとは対照的に現実世界の人間です。シテ方は、シテを演じるほか、シテに同道する「ツレ」、子役である「子方(こかた)」、能の声楽である「地謡」を担当します。シテの装束を舞台上で直したり、いざという時に代役を務める「後見」もシテ方の役割です。ワキ方は、ワキを演じるほか、ワキに同道する「ワキツレ」も演じます。

狂言役者は「狂言方」と呼ばれます。狂言を演じるのみならず(この場合の主人公を「シテ」、その相手役を「アド」といいます)、実は能でも「アイ(間)」と呼ばれる重要な役割を果たします。能では、シテが前半(前場)と後半(後場)の間に一度舞台から引っ込んで、装束や能面を変えて再登場することがよくあります。この前半と後半の間に登場して、状況を説明したり話を展開させたりして後半に引き継ぐ役割を果たします。能の作品に「アイ」の狂言方が現れることで、舞台上に一つのポイントができ、メリハリを与える効果もあります。なお、狂言方が狂言で面(おもて=狂言面)をかけることはあまりありませんが、神仏や動物に扮する場合に用いることがあります。

器楽担当の囃子方も、担当する楽器により、それぞれ笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方に専業化されています。能楽は役割が細分化・専門化されることで技を研ぎ澄ませてきた芸能と言えるかもしれません。楽器のことはまた改めて。

このように能楽は、小ぶりでシンプルながら専用の舞台上で、専業化されることによって技を磨いてきた演者や演奏家が、演劇や舞踊や声楽や器楽や舞台美術の技を結集して上演する、豊かな芸能なのです。

能楽のルーツ

能と狂言の原点となった唐からの輸入芸能「散楽」は、歌舞や物まね芸、アクロバット的な曲芸など、さまざまな要素をもつ雑芸の総称でした。平安時代には、散楽をもとに、日本人の感性にあった要素をクローズアップし、寺社の祭礼と結びついたり、風流(ふりゅう=笛、鉦、歌に併せて踊り練り歩き、盆踊りや獅子舞に展開)や曲舞(くせまい=鼓や謡に併せて一人ないし二人で舞う)といった同時代の他の芸能を取り入れたりして、日本独自の芸能へと変化します。これは「散楽」から転訛して「猿楽」と呼ばれました。

猿楽を演じる猿楽師たちは「座」と呼ばれるグループを形成し、互いに切磋琢磨して技を磨き、独自性を模索します。そこから現れたスターが観阿弥・世阿弥父子です。彼らは室町幕府三代将軍足利義満の寵愛(ちょうあい)を受けて京への進出に成功し、物まね本位だった猿楽を音楽性の重視により優美な歌舞劇へと変容させました。これが「能」への分岐点です。

一方、物まねを中心とした猿楽は、その滑稽味に演劇性を加味し、上位の者に対する皮肉や風刺を込めることで庶民の共感を得ていきます。これが「狂言」への新しい一歩でした。

こうして能と狂言は分化しましたが、上演の機会を共有し、能と能の間に狂言を挟むという形態を保持しました。このことで、より互いの独創性が際立つことにもなったのです。