悠久の旅路、郷愁の山里、峰々高く緑深き信州旧街道の魅力。
連載『信濃路古道紀行』を読み解く。

昔の信濃の国、現在の長野県は本州中央部の内陸部に位置し、八つの県と隣接します。県域は南北に細長く延び、その大部分を3000m前後の南北アルプスや八ヶ岳、2000mを超える浅間山や北信五岳などの高山が占めます。人々の暮らしはその山間に開けた平野部や山裾に、あるいは山懐深くで営まれていますが、平野部でも標高は300~760m、山間部ではそれ以上に高いところでの生活になります。

本州中央部という地理的重要性から、信濃には律令制以前に畿内と東国を結ぶ古東山道が開かれ、その後この道は官道として改修され、9世紀には信濃国内に15の駅家(うまや)がおかれました。官道とはいえ山国ゆえ道中の困難は並大抵ではなく、無事を祈る歌が『万葉集』などに残されています。これとは別に、古くから日々の暮らしのための道も険しい山を越え、激流に足もとを洗われながら各地に開かれ、国境(くにざかい)を越えての交流も行われていました。

塩の道

海のない信州では特に塩の入手が重要で、その塩の道として今日知られている糸魚川街道や伊那街道以外にも上州や甲州からのルートもありました。日本海側の糸魚川から入る塩は「北塩(きたしお)、太平洋側の三河からのものは「南塩(みなみしお)」と呼ばれ、俵に詰められて牛や馬の背で運ばれました。塩はさらに主要道から派生する幾筋もの道で信濃の隅々にまで運ばれましたので、国中いたるところ塩の道だったといわれます。そのせいか、塩の最終到達点を意味する「塩尻」という地名が、塩尻市以外にも上田市や栄村など3カ所に残ります。

千国街道

中山道、北国街道、善光寺道、鬼無里街道

江戸時代には徳川幕府により五街道が定められ、信州では中山道が整備され参勤交代の大名行列や例幣使の通行で往来を賑わせました。また、北陸方面からは、追分で中山道と合流する北国街道が参勤交代路として利用されました。その頃から、武田信玄により甲府に移されていた善光寺本尊仏が戻されたため善光寺詣でが盛んになり、これまでの生活路が参詣人で賑わうようになって、善光寺道として今日にいたっているところもあります。

ほかにも、北信では戸隠詣でのための鬼無里街道、南信では三河の秋葉詣での伊那街道などが参詣路として善男善女で賑わいました。

江戸中期以降は、地場産業の発展で物資輸送のための馬への依存度が高まり、これによる陸上輸送が盛んになりました。馬による運送業を「中馬(ちゅうま)」といい、18世紀中葉にはこれに使用された馬は信濃全土で2万頭弱を数えました。中馬の往来が特に盛んだったのは伊那街道で、この地方では「岡船(おかふね)」ともいわれました。岡船は明治の半ばまで続き、東海地方から中信の松本や諏訪間を往来しました。

信州の街道の発展を促したのは参勤交代とこの中馬です。参勤交代のために中山道を利用したのは34家、北国街道では加賀前田家など11家のほか、佐渡の金銀もここを通って江戸に運ばれました。中馬は「道あるところに必ず馬のいななきが聞かれる」といわれたほど全域に及んで商品の流通を盛んにしたばかりか、東は上野や甲斐、南は遠江、さらに三河や尾張にまで出かけました。本来、物資の輸送は川を利用したほうが効率的ですが、ここ信州では高い山に囲まれて急流が多いため、木曽の木材を木曽川に流した以外はほとんど水上の輸送に頼ることはできませんでした。そのために、山国信州では他のどの地域よりも街道が重要な役割を果たしてきました。

北国道・海野宿

今日では道路事情により日本全国多くのところで旧街道が姿を変えてしまっていますが、比較的よく残され随所で街道ウォークを楽しめるのがここ信濃路です。半ば公道でもあった中山道や北国道のような主要道ばかりでなく、主に庶民が生活のために歩いた隣国に通じる道、さらには現代の交通網から取り残された山深い旧道にも人々の確かな足跡を見出すことができます。

中山道の木曽11宿や北国道の海野宿(うんのじゅく)では賑わった宿場の様子をよくとどめ、人里離れた街道筋では風雨にさらされるままたたずむ道祖神や石仏、馬を労う馬頭観音などが旅人の苦労を物語っています。

山また山の信州では街道とはいえ山路をたどることが多く、それだけに人里にたどり着いたときの安堵感はいかばかりだったでしょう。いにしえを訪ねる旧街道の旅路は、今なお素朴な風情をたたえ、郷愁の念さえ抱かせます。

海野宿