現在、身近な飲物として親しまれているお茶が、最初に日本に入ってきたのは、奈良時代から平安時代とされ、庶民が飲むようになったのは250年くらい前です。
その間に何があり、どのような経緯でこれほど身近な存在となったのか。深くて新しい日本人とお茶の歴史を、茶文化研究の第一人者である、文学博士の熊倉功夫先生にお聞きしました。
企画構成 : 小野里保徳 Yasunori Onozato / まとめ : 村田保子 Yasuko Murata
Keyword : 熊倉功夫 / MIHO MUSEUM / 遣唐使
お茶のカフェイン効果は古代から知られていた
チャの木は学名を「カメリア・シネンシス」といい、照葉樹に分類されます。照葉樹とは太陽の光でテラテラと光る葉を持つ樹のことで、低木と高木がありますが、下生えの低木にはチャ、ツバキ、ウルシなど、有用な植物が多くあるのです。
そして、この照葉樹が育つエリアは、台湾、中国、インドなどに広がっており、日本もかつては照葉樹林に覆われていました。これらのエリアに共通する文化は、「照葉樹林文化」と呼ばれます。お茶もまた、照葉樹林文化の賜物のひとつなのです。
古代に中国の雲南省、タイ、ミャンマー、ラオスなどの国境が接する辺りから発生したチャの木は、古くから少数民族の嗜好品とされ、やがてそれが漢民族の知るところとなり中国全土に伝わりました。
照葉樹の中でカフェインが含まれているのはチャの葉だけです。昔から南方の少数民族は、経験的にチャだけが持つ特別な効果を知っていて、眠気覚ましや覚醒を促すために使っていたと思われます。
日本でも最初は、僧侶が経を読むときに、眠気覚ましとして飲まれていたといわれています。日本における仏道修行の上で、お茶に含まれるカフェインが果たした効果は大きかったのではないでしょうか。
中国から日本へ入ったお茶は、遣唐使廃止で廃れてしまう
飲料としてのお茶がいつ日本に入ってきたのか、はっきりとしたことは分かっていませんが、史料に初めてお茶が登場するのは、平安時代の815年です。『日本後記』に嵯峨天皇が近江に出かけたときに、永忠という僧侶がお茶を煎じて奉ったとされる記述が見られます。
しかし、その前の奈良時代に、日本はたくさんの遣唐使を中国へ派遣し、急速な勢いで中国文化を取り入れていましたから、その中にお茶を持ち帰った人がいたと、私は考えています。
日本は、奈良時代から平安時代初期にかけて漢詩がもてはやされ、中国文化への強いあこがれを持っていました。その中でお茶も貴族たちの間で流行したのです。しかしその後、遣唐使が廃止され、中国へのあこがれがなくなると、お茶を飲む習慣も日本から消えてしまいました。
なぜならその当時のお茶は、現在のような形ではなく、日本人の好みに合わなかったのではないかと思います。当時のお茶は団茶というもので、発酵が進んだお茶の葉を固めて団子のようにしたものでした。カビが添加しているため独特の風味があり、現在でも中央アジアなどで広く飲まれていますし、中国のプーアル茶も団茶です。気候風土が合えば美味しいと感じるものですが、少なくとも当時の日本人の味覚には合わず、美味しいと感じることができなかったのだと思います。
抹茶としてお茶が再び伝来、茶の湯文化に成長
その後日本に再びお茶が入ってきたのは鎌倉時代です。仏教を学ぶため中国の宗に渡った、臨済宗の開祖・栄西禅師が、持ち帰ったとされています。
茶葉は摘んだ後、放置すると自家発酵しますが、宗代の中国では、摘み取った茶葉に、熱を加えて発酵を止め、緑の葉っぱのまま粉にして飲むという方法がすでにありました。つまり抹茶です。栄西はこの抹茶を日本に持ち帰ることで、お茶の新しい作り方、飲み方を広めたといえます。緑色で美しく、青々とさわやかな香りがして苦味と甘味がある。この抹茶の特徴が、日本人の好みにぴったりと合ったわけです。
さらに、栄西は「茶は養生の仙薬なり……」ではじまる『喫茶養生記』という書物を著し、経験的なお茶の薬用効果も伝えました。ここで栄西は、お茶は万病に効き、長生きするための術となるという内容も記しています。これは、おそらくカテキンの効果のことでしょう。今の時代になり、お茶の健康効果が再び注目され、ようやくそれが証明されつつあるのです。
栄西以降、お茶の効能については、近代まで誰も関心を示さなくなるのですが、お茶の美味しさというものがすっかり日本人に馴染み、貴族や武士、僧侶を中心に、嗜好飲料として広く飲まれるようになります。
また、日本の広い地域でチャの木が栽培されるようになり、種類も増えていきます。やがてお茶を飲み分けて種類を当てることをゲーム化した「闘茶」という遊びも登場。ここに連歌や生け花などのゲームを融合させて、芸能とお茶が結びつき、さまざまな文化や美意識を取り入れながら、「茶の湯」という新しい文化に成長していくのです。茶道はお茶を飲むことを起点として、日本人独特の宴の遊びから発生してきたものだといえます。
お茶は日本の庶民の間に、いつどのように広まったのか?
貴族や武士、僧侶など、当時のアッパークラスの人びとが、抹茶を飲んできたという歴史ははっきりしていますが、一方で庶民がいつからお茶を飲むようになったのかは記録がなく、断片的なことしか分かっていません。
史料としては、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』に、一般庶民がお茶を煎じて飲んでいたというような記述があり、遅くとも室町時代には釜のようなもので、茶葉を煮出して、手をかけずに簡単に飲んでいたことが分かっています。また古い狂言には「日干番茶」という言葉も出てきます。これは抹茶を摘んだ後の葉を、庶民が利用して、今の番茶のようなものとして飲んだと考えられています。
しかし四国には碁石茶、阿波番茶など、昔の団茶と同様の製法で作られる後発酵茶というものが残っており、もしかすると栄西とは異なる民俗的なルートで団茶が伝搬し、庶民の間で広まったのかもしれません。この解明には今後の研究が望まれるところです。
ルートは解明できていませんが、日干しにした茶葉を釜で煮て、その煮汁を飲むことは、庶民の間でどんどん広がっていきます。江戸初期の史料にもお茶のことがたくさん出てきますが、すべて「煎じ茶」と書かれています。おそらく現在の麦茶のような感覚で、番茶を煮出して飲んでいたのでしょう
煎茶の発明と急須の普及で、お茶は日常茶飯事の飲料に。
四国の碁石茶などの特殊なものを除いて、江戸中期まで日本のお茶は、上流階級の抹茶、庶民の番茶しかありませんでした。緑茶のような緑の葉茶ができるのは1730年のことです。宇治の茶師であった永谷宗円が、緑茶を発明して全国に広まったといわれています。これが現在でも日常的に飲まれる日本茶である煎茶です。今から280年くらい前ですから、それほど昔ではありません。
なぜ、この時代まで緑茶はできなかったのでしょうか。おそらく階級社会により、抹茶と番茶の世界が隔絶していたからだと思われます。しかし、煎茶ができると茶葉に対する興味が広がり、当時の文人たちが関心を持ちはじめます。というのも、その頃の抹茶の世界は、茶の湯として芸道化が進んでいました。文人たちはそこに疑問を持ち、茶の湯はお茶本来の味や精神性を欠いていると考え、アンチテーゼとして煎茶を文人のシンボルにします。そして、中国の福建省にあった煎茶の手法を日本に持ち込みました。それは、後に煎茶道として発展します。
福建省のお茶をモデルとして、急須が輸入されて日本でも作られるようになり、庶民の間で使われるようになったのは250年くらい前の江戸後期です。この頃に、茶葉にお湯を通すだけで成分を抽出するという、現在のお茶の飲み方が確立されて、日常の飲料として定着していったと考えられます。
人と人の距離を近づけるお茶を淹れるという文化。
江戸末期から明治中期にかけて、煎茶は幕末の志士や新しい日本を作っていった政財界の人物に好まれ、おおいに発展して流行します。しかし、日清戦争後、ナショナリズムが起こると、千年以上も文化的手本だった中国が退けられてしまうのです。そして、西洋を新しい手本として日本は新たな道を進むことになります。
やがて高度経済成長期を迎え、それが終焉した後、日本らしさの多くが失われつつあることに気づきます。それはお茶の世界だけではなく、日本文化全般にいえることでしょう。
もう一度日本人が「和」とは何かを問い直し、独自の文化に誇りと自信を持てる時代が来てほしいと思います。お茶も飲むことは、日本文化を飲むことです。たんに便利だから、美味しいから飲むというだけでなく、その奥深さや歴史の背景も味わってほしいのです。
また、中国でもひとつの急須に淹れたお茶を均等に分けて飲むことをとても大切にしています。中国全土でお茶が飲まれるようになったのは、1300年くらい前の唐の時代に遡りますが、急須がなかったその時代にも、ひとつ釜にお茶を点てて、それを碗に分けて皆で飲むという分茶が一般的でした。室町時代から江戸時代にかけて、日本の庶民に広まった釜で煎じたお茶を、柄杓で汲み分けて飲むことも同じですね。
現在、お茶はペットボトルで飲まれる機会が多く、一人一本という個々の感覚になっていますが、本来お茶は一人ではなく、皆で飲むものなのです。「一緒にお茶でも飲みましょう」という言葉は、もっと親しくなりたいという思いを込めて使われてきました。ひとつの急須でお茶を淹れて、それを注ぎ分けて飲む行為は、人と人の距離を縮めるような手続きとして有効だったわけです。
お茶を淹れて飲むという文化が持つ、人間と人間を関係づける素晴らしい側面に、これからの若い人たちの注目が集まってくれればと願っています。
熊倉功夫(くまくら・いさお)
文学博士。京都大学人文科学研究所講師、筑波大学教授、国立民族学博物館教授、静岡文化芸術大学学長、国立民族学博物館名誉教授を経て、現在MIHO MUSEUM館長。古代から近代までの喫茶文化や寛永文化を中心に、食文化や民芸などの日本の生活文化まで幅広い分野を研究。『茶の湯といけばなの歴史 日本の生活文化(左右社)』、『後水尾天皇(中央公論)』など著書多数。
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