江戸幕府の強化を狙った参勤交代は、それだけではなく、各地域への経済効果や、違う文化を持った大人数の移動による文化交流が行われるなど、様々な波及効果を生んだ。
威風堂々たる大名行列の陰で、 逼迫していった諸藩の台所
参勤交代とは、諸国の大名が1年 おきに江戸への出仕「参勤」と自国 領への帰国「交代」を繰り返す制度 です。関ヶ原の戦の後、諸国の大名 は徳川家康への忠誠を示すため、自発的に江戸出仕をする者が多かったといいます。これが三代将軍・家光の時代、すべての大名の義務となったのです。 ページの「出女」の話でも少し触れましたが、制度の義務化にともなって、すべての大名の妻子は江戸に移されることになりまし た。万一、国元で謀反の気持ちを起こせば「妻子の命はないぞ」という立場に置かれたのです。
幕府が参勤交代を制度化した一番の理由は、諸藩の財政を逼迫させ、藩体制を盤石にすることにありました。なにしろ参勤交代にはお金が掛かります。巻末の表でも示すように、加賀百万石の大名行列は最大時で4,000人にも達しました。その移動に掛かる経費は、当時と現代の米の価格で換算すると、およそ数億円。他にも立派な江戸屋敷の維持費や滞在する藩士の生活費が必要でしたから、参勤交代にかかわる費用は膨大なものでした。
一方で様々な経済効果や文化交流も生んだ
その一方で、参勤交代はさまざま な経済効果を生み出してゆきます。 大名行列の一行が泊まる宿場町はもちろん、川渡しや船渡しの場所などでは、行列が通過するたびに大きな臨時収入を得ることができました。 幕府は江戸防衛のため大井川に橋を架けなかったとされていますが、実は徳川家のお膝元である駿河の民を経済的に潤すため、「越すに越されぬ大井川」をそのままにしていたという説さえあるのです。
さらにいうと、大勢の人が江戸と地方の間を移動することにより、最新の文化や流行の情報が日本中に運 ばれていくという効果もありました。 米だけで藩の経営を維持できなくなった諸藩は、大消費地の江戸で求められる商品を敏感に察知し、それぞ れの地域の特色を生かしたさまざま な特産品を生み出すことにもなっていったのです。
また、街道沿いに暮らす人々にとっての大名行列は、娯楽の少ない時代における最大級の見世物でもあったのでしょう。華やかな行列の行き 着く先は江戸という大都会であったり、言葉も、文化も、風習も違う遠 い国であったり……。もしかすると、 現代人が「街道」という言葉にどことなくロマンチックな気分を感じるのは、そうした思いの名残なのかもしれません。
■日本各地の大名の参勤交代の状況
*この『めぐりジャパン』は、株式会社シダックスが発行していた雑誌『YUCARI』のWeb版として立ち上げられ、新しい記事を付け加えながらブラッシュアップしているものです。